「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

書けるひとになる!を読んで。まだ途中ですが

書くことが身近にあったものの、誰かに説明する、自分に説明するため、思考を整理するために書いてた気がします。

書くことで、ちょっと説明できない部分が明確になるから、深堀していくために書いていたことが多い…というか全部そうなんじゃないかな。自分の感情とか書いたことないと思う、少ないと思う。どうしてこうなっちゃうんだろう観たいなことは書いたことがあるけど、それも自分の感情を分析するためかな。

なんにせよ、書くことは非常に身近にあったし、何ならもう20年近く書き続けてる。その弊害として、言葉面で分かったようになってしまうこと。筋の通った説明はできるけど、行動には移せないし、技術が身につくわけじゃない。例えば何かを続けられない理由について考えたとして、それが理屈的に説明できたとして、でもそのおかげで何かを続けられるようになるわけじゃないんです。当たり前ですけど。おかげで納得感のある説明はできるけれど、自分は技術も何も身についてなくて、いわば蘊蓄を垂れているだけの人。

自分の好奇心は、仕組みとか原理を知ることに向いていて、行動することできるようになることには向いていないんです。もうほとんどそうなんじゃないだろうか。興味を持ったことは何でもノートに書きますし、どうしてそうなるのだろうかということも自分なりに書いたうえで、調べて追記することも多いです。でもそれを実演できるようになることはほとんどありません。

特に、自分が負の感情をもったりしたものはまずやりませんね。もちろん仕事とならやるけど。ネガティブな感情だったり、感覚が湧いてくるようだと動けなくなる。特に肉体的に、呼吸のしづらさだったり、鳩尾の重たさ苦しさだったりを感じると余計に。逆に肉体的に心地よさ、快さを感じるとすぐやりたくなるし、何も考えなくても継続できるんですけどね。例えば整体とか。

例えば、ブログを書くときってやっぱり意味を考えてしまうの。こんなことを書いて誰得なんだろうかと。自分の経験でしかないじゃないかと。それにそれが事実だったとしても検証してないし、再現性はないし。情報という価値はほとんどないように感じるから、発信する意味ないんじゃないのっていつもよぎってます。読み返してみれば、自分はそうだよねって思いはしますが、読んでくれた人にとっては意味のないものなので…。例えば、ブログやInstagramを活用した集客の仕組みとかって興味ありますし、方法論だとかを勉強して理解はできるものの、やってみたいってワクワクしないどころかあんまりいい感情は生まれないんです。現状ブログを書くときのことをよくよく観察してみれば、読んでくれる人の存在を消して、気にしないようにして書いているようです。誰も読まないし読んでくれる人なんて存在しないと思い込んで書かないと書けない。そんな感じですね。

他にも、昔からラジオが好きで、人の声が好きだったんですけど、自分の声はあまり好きじゃない。というよりも声を出すのが苦痛というか大変というか。発声するたびに頑張って声帯を押し開いて声を出している感じがして、ものすごいエネルギーを使っているような感じがする。おまけに通りが悪くて聞き替えられることが多いし、それだけで緊張するし、あーあまり声を出したくないなって思うようになったんです。

けど、竹内さんの聲が開かれるときって本を読んだこともあって、自分のからだの音として声を発していくことって、自分のからだに生まれたエネルギーの昇華方法としてとても良いような気がしたんです。操体法でも快感を求めてからだを動かしていくことが大事だと言われていることもあって、からだの動きの一部である声にも同じことが言えるような気がしたんです。声を出すだけで心地よい、自分が心地よくなれるなら、それは自分にとってとってもいい声なんだろうなぁと思うんです。そしてそれはいろんなことに言えるような気がして、世の中に絶対的な正解がないのなら、自分にとっての正解、気持ち良さを求めることが大切なんだろうなって思うんです。珈琲の味にしろ、絵を描くにしろ、詩を書くにしろ、からだを動かすにしろ、声を出すにしろ…

でも実際には、たとえばボイトレ教室に行ったり、今なら声を発信するアプリもありますし、やりようならいくらでもありますが、怖くて手が出せないんですよね。字面ではそう思うんですけど、それを行動に移せなくて…。

さらに今のところ最大の抵抗は、自分のお店を出すこと。お店を持とうと思うだけで、重苦しい、ボディーブローを食らったような、ズーンという感覚が鳩尾に響くんですよね。身銭を稼ぐために、誰かの下で働くのではなく自分で稼ぎたいと思うからなんで、あまり前向きな思いからではないのですが。とてもじゃないけど、不安感が漠然としすぎていて、そこから建設的な何かを考えられないんです。それがずっと続いてて解決策が見つからない感じなんです。


仕事を抜きにして、将来のことを考えると必要だなとか、これはやりたいなって思うことがあっても行動することができなくてずーっと悩んでいました。その原因が、不安感、恐怖、恥じらいであることは分かってはいるんです。

仕事ではどうしていたか。もう選択の余地はないわけですよ。やるしかないからやりますけど、当然不安が的中するし、恥をかいたと思うし、全然うまくいかないんです。自分の中では全然うまくいってない。やっていくうちにできるようになっていくとはよく聞きますが、できるようになったという実感が全くないんですよね。

いきなりできるようにはなりませんし、いきなり最上級を求めてもできるわけがないし、小さくやって、成長させていくなんてやり方がいいのは分かっています。でもその過程で感じる不安とか恐怖とかが耐えられないんですよね。やった後はくたびれてしまって、もう二度とやりたくないって思ってしまう。自分に期待しすぎなんでしょうかね。これって問題なのが自分だけに留まらないんですよね。たぶん他人のできなさ加減を許容できなくなっちゃうんですよね。自分の不出来を受け入れられないと。だから何とかしたい。できないことは問題じゃなくて続けられないことが問題なのだと知ってるけど思えない。何かを続けることができないと生きていけない。


書ける人になるって本を読みました。読んでる途中ですが。とにかく書くことが大事なんだと書かれていました。そんなこと何十年とやってきてます。自慢じゃないけど。だからそんなことで何とかなるなんて思わなかったんです。

だけど、ランニングの例が出てくる。走り続けることが大事だと。嫌になる日もある。からだが動かなくて走れない日もある。それでも走り続けることが大事なんだ。そのためにノートは力を発揮してくれる。走らなきゃって考えた途端、もう一人の自分がそれを止めにかかる。走らなくていい理由をさんざんわめいてくる。それを書き留めてあげて、言いたいように言わせてあげたら、ノートを閉じて走りに行きなさいと。ヨガでとにかく笑顔でいることと通ずる。大変だしきついし息も切れるけど、何も考えずにとにかく笑顔でいようとすることと同じに感じる。

書くときにフォーカスされているのは、自分がやろうとすることに対して抵抗しようとする言葉たち。やろうとする気持ちを阻害するネガティブな言葉たちを書き出すこと。そうやって自分にブレーキをかけてくる、ささやいてくるやつを編集者と呼んでいましたが、彼らに言いたいように言わせることは、自分のネガティブな感情と向き合うことでもあると思いました。ないがしろにせず、亡き者ともせず。批判も賛成もせずただ向き合うことってこういうことなのかって思いました。

それに編集者は悪者ってわけじゃないとも思いました。彼らはこれまでの経験から起こるであろうリスクを提示してくれている存在でもあるんだと思うんです。彼らが言ったことは大抵の場合、誇張されているのでしょうけれど、でも大なり小なり起こる確率はかなり高いとのだと思います。それは自分のこれまでの経験をベースにしているからです。編集者の言い分を書き出すことは、これから何が起こるのかを予め把握しておくことにつながるのだと思います。

ただ、ボクが勘違いしていたように、これらを書き出したからって、そういうことが起こらない保証にはなりません。ネガティブな感情と向き合うことはよく聞くことですが、それをしたら消えてくれるわけじゃないんですよね。書き出すことは、そういったリスクを確認するすべにはなるかもしれませんが、それがなくなってくれるわけじゃない。

自分にブレーキをかける存在と向き合うことにはなると思います。やろうとしたとき自分は何を感じ思っているのか、もっと言えば何に恐怖を感じ、不安を感じ、やりたくないと言っているのかを知るすべでもあります。何かをやろうとしたとき、それらを書き出すことでちゃんと自分が感じているものと向き合うことができますが、それは起こりうるリスクでもあるんです。

だからあくまでも大事なのは、書き出し向き合ったうえで、とにかくやることなんだと思いました。向き合ったうえでやる。これは森田療法の「ありのままにはからわず」というものと同じように感じます。昔はそれが字面では理解できましたが、平気になるんだと思い込んでいました。そうなんですよね。いくら向き合ったからって不安とか恐怖がなくなるわけじゃないし、平気になるわけじゃないんですよね。消えてはくれない。何かをやろうとしたときに湧き上がってくる不安は消えない。なくなることはない。

それでもやるしかない。やらないを選ばないのなら、もうやるしか選択肢がないのだから。不安を抱えながら進むために、不安を書き出すことが大事になってくる。それは進んだ先に、そのリスクが実際にどのくらい確かだったかを確認するためでもある気がします。フィードバックループのように、これくらいのリスクなら大丈夫、やれるって思えるようになるために大事なんだと思う。だから何にしても行動しなければ意味がない。

聞くときは聞け、歩くときは歩け、死ぬときは死ねという言葉があるそうです。書くときは書け。やるときはやれ。アーティストやアスリートや俳優や女優さんのインタビューでも同じような表現を見かけます。やるしかないから腹をくくってやるしかないだと。

よくよく思い返せば、ボクはこの不安や恐怖を消す方法をずっと探していたんだなと思うのです。不安を消す方法、平気でいられる方法を必死に探していたからこそ苦しかったんだなぁと思うんです。ありもしないものを信じて、苦しくても歯を食いしばって進んできて、結局挫折してしまったわけですが。そこまでやったからこそ、そんなものはないんだって思えたのかなとも思います。不安を抱えて進むしかないんだなって腹をくくれたというか。

挫折前では受け入れられなかったと思います。そんなこと一生続けてられないって。不安を抱えて生きてはいけないって。あまりにも辛すぎますから。

以前は、嵐の中に裸の心を晒しても平気でいられるようになりたいと思っていました。でも今は、嵐のような不安を抱えても歩みを止めずに進んでいけるようになりたいって思うようになりました。そのためには不安を抱えながら進むしかないんだって今なら思えます。もうそれしかないんだろうなって感じで。