「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

立つということ。久しぶりの站椿功。

20分くらいしか立っていられないのだけど、
百会から吊り下げられているイメージを持つのだそうだ。

これをやってると、実際には足で踏ん張っているにも関わらず、
足の力を抜いてしまえるんじゃないかって思えてくるのが不思議。
それって、不要な力みがあるからなんだろう。

もし本当に、百会からぶら下げられていて、
足裏は地面に乗っているだけであれば、
全身はかなりくつろいでいられると思う。

でも実際には、全身で下向きの力を発し、
地面からの反力で、からだを立ち上げているのだ。

地面を踏みしめ、からだを立ち上げつつ、
百会から吊り下げられているつもりでくつろぐことができれば、

緊張と弛緩の真ん中、中庸に居られるのだろうし、
きっとこれが放松であり、テンセグリティであり、
からだの中に隙間を作ることであり、
動的可動性を維持した状態なのだろう。


ちょっと気になるのは、くつろいでいく順番が、
肩や肘、胸や背中など上半身からであること。

例えば、倒れるギリギリのところまで前傾した状態で首を緩められるだろうか…。
例えば、ストレートネックです、猫背です、反り腰ですって場合、
その局所的な緊張の原因は、首や背中や腰にあるのだろうか…。

ジェンガで、積み上げられたブロックの安定性が
土台のブロックの状態に左右されるのと同じように、
上体に表れる問題の原因は、下肢にあるんじゃないだろうか。
だから、くつろがせる順番は、下から行くべきなんじゃないだろうか。


立ってるときに足裏の力を抜くと、とても不安定な感じがする。
でもそれは、すぐに動き出せる状態、居着いていない状態とも言えそう。

そういえば、野口三千三先生の本に生卵の話が載っていたっけ。

 立っている生卵は少しゆするとすぐ倒れてしまう。初めのうちはこのことが私に不安と脆弱さを感じさせた。やがてこの感じは変わってきた。倒れる生卵はけっしてあわてず騒がず悠々として、大自然の原理に任せきってなめらかに倒れるのである。それは瞬間の出来事であるにもかかわらず、ゆっくりたっぷりとして感じられる動きである。顔色も変えず中身をかためることもなく。止まった後もまた悠々としてそっとそこに寝るべくして寝ているのである。立派である。やはり美しい。
 立っているものが少しの外力ですぐ倒れるということは、立っていることにとって不安定であり、不安感をともなうことは確かである。しかしその反面は、わずかなエネルギーが働くだけで倒れることができる能力をもつ、自分の姿勢や位置を変える可能性をもつ、つまり、動きの能力が高いということになるのではないだろうか。
 (中略)
卵が立つ原理は、逆に人間の立ち方の本質を示している。


出典:原初生命体としての人間

改めて読んでみてもニヤニヤしてしまう。とても面白い示唆だと思う。
武術でも居着かないことを大切にしているけど、こういうことなのかなって思う。
ぶら下がるように立ち、足裏から頭のてっぺんまで緩めていけたら、
居着かないからだになるんじゃないかな。そんなことを思った。