「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

世界をありのままに眺めるために無心になる

以前書いた内容と重複するかもしれないんですが、外在的世界と内在的世界の乖離は、あまり良くないものだと理解しています。例えば、道を歩いていて「肩がぶつかった」のか「わざとぶつかられた」のか。乖離をなくすためには、外在的世界をありのままに認識する必要があります。解釈ではなく観察です。

このような話を魔術の構造や一般意味論で勉強しました。
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もともとヴィパッサナー瞑想に参加したことがあったので、自分のからだを観察するため、日常的に瞑想するようになりました。それからしばらくして、知覚力を磨くという本に出会いました。
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この本では、視覚を通して得た情報をどのように解釈するかを学ぶことができました。例えば、絵画に表現されている影や陽の色合いなどから時間帯や季節を推測したり、描かれている人々の目線か姿勢、立ち位置から関係性を推測したり。きっとシャーロックホームズはこうやって世界を見ていたんだろうと、小さい頃のワクワクが蘇りました。そこから美術館へ通うようになりましたし、気に入ったポストカードを四六時中眺め、気づいたポイントを書き留めるようなことをしていました。

しかし、解釈にとって大切なのは、経験に基づく事実です。事実をありのままに認識できていなければ、当然 解釈も歪みます。目の前にある事実をありのままに観察するすべはないかと探していた時に見つけたのが、脳の右側で描けでした。
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ちなみに本の通りに模写したのがこれです。

正直驚きました。こんなにもそっくりに描けるもんなんだと。今まで自分が何も見ていなかったのだと思い知らされました。見ているようで観ていない。聞いているようで聴いてはいない。触れてるつもりで、嗅いでるつもりで、味わっているつもりで…。見ているつもりで、ただラベリングして満足してしまっていたのだと、そう思わざるを得ませんでした。



最近、まさにその通りなことが置きました。昔から、ヴィパッサナーも操体法も日常的にやっているので、自分のからだを観察することくらいできていると思っていたんです。また、カリステニクスというものを知って、自分のからだくらいは自由に動かせるようになりたいなと、からだを動かす機会が増えてきました。

そんな中気づいたのが、呼吸です。昔からそうなのですが、自分の呼吸に意識を向けると途端に息苦しくなってしまい、自然な呼吸ができなくなります。意識を外してしばらくすれば、自然に戻るんですけど、ふと意識すると、途端に崩れて苦しくなってしまうんです。これって呼吸を観察しているようでいて、できていないじゃんってなりました。

まるで、授業参観の子供のようです。普段の自然な姿を観たいのに、余所行きの態度を取られてしまう。意識したことでプレッシャーがかかり、普段の呼吸ができなくなってる。そういうことなんだと思います。

自分を観察するというのは、映画館で映画を見るようなものだとむかし何かで読みました。映画の中に介入しようとしているのかと。そう思うと笑えますが、どうしたらいいのかわかりません。呼吸を観察するけど、介入しない。UNDOINGするためにはどうしたらいいのか。久しぶりに、アレクサンダー・テクニークを読みました。
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とても久しぶりに読みましたが、得るものがたくさんありました。とはいえ独習のようなことができるものではないので、あれですが…森田療法にも通じる話が書かれていて、やはり進みたいのはこの道だと思いました。
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整体や野口体操、ヴィパッサナーや絵画に共通するのは、からだを通して世界を眺める力、観察する力が大切だということ。それを高めようと今まで取り組んでいたんです。野口整体や野口体操でもからだが本来持っている力はすごいとか、アレクサンダーテクニークでも、もし何かを正しく行えたとしたら、それは自分がうまく何かを成し遂げたというわけではなく、ただからだがやることを邪魔をしなかっただけの話なのだと説明しています。

からだの自然な反応に任せる。介入しない。自然のままがいい。それが大事。そうすれば自然にからだは動いてくれるはず。例えば、バランスをとる。からだの自然な反応を無視して自分で何とかしようとすると静かに留まってはいられない。そういうことなんだと思います。

アレクサンダーテクニークの本に書いてあった弓と禅、早速注文しました。
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こと、からだのことであれば、まさにバランスをとるときのように、からだが自然と起こす反応を邪魔しなければいいのだと思います。それがいかに難しいことなのかは、先の呼吸の話で理解してます。ただその一方で、弓を射ることや焙煎をすること、運動やスポーツをうまくやることはどのように考えたらいいのでしょうか。

バランスをとる例のように受動的に反応する場合はイメージしやすいですが、自ら能動的に操作や動作をしようとする場合、からだにあるがままにさせるというのはどういうことか。悩みます。自ら動かなければ何も起こらないのに、からだの反応に任せるとは?特に、弓と禅の話では、自らが弓を引いて矢が的に飛んでいくのではなく、矢それ自らが的に向かっていくように射ねばならないと。本当にそうなのでしょうか。もしそうだとしたらちょっと理解できません…。


現状では、生きていくためには環境に適応し成長していくことが必要で、そのためには試行錯誤が必要で、試行錯誤には観察力が必要不可欠。しかしその過程で邪魔になるのは自分の心の作用。失敗したくない、上手くやりたい、他人より早くできるようになりたい…。それが目を曇らせ、現実から目を背けさせ、都合の悪い情報を見えなくする…。結果に向き合えず、受け入れられず、認められない…。

ありのままに観察するためには何が必要なのか。それが無心なんだろうと思います。無心になれば無敵になれるわけじゃない。無心になると、目の前の結果をありのままに受け入れることができて、それが質のいい観察となり、質の高い試行錯誤につながり、成長へ昇華されるのだと。そう思います。


さっきのバランスを取る例と違って、弓を射る、焙煎をする、走る、歩く…これらは自らの意思で行うわけですが、それでも本質は同じだと思います。無心に行い、適切な観察が適切なフィードバックを起こし、それをもとに試行錯誤を繰り返し、成長につながる。「無心であることの重要性は、質の良い観察を生むこと」。そしてそれがフィードバックとなり、試行錯誤へつながっていくのだと、今は理解しています。弓と禅。読後にどのように変化したのかをまた、機会があったら書きたいと思います。