「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

意識やイメージが及ぼす動きへの影響

身体は、意識やイメージに反応してるみたい。もう何年もの間、操体法にならって身体の痛みや伸びや気持ち良さ、快感を追いかけるように毎晩身体を動かしていたら、こういった意識の仕方やイメージ一つで、まるで身体の組成が変わってしまったかのような変化を感じるようになった。

例えば、腕の一回り外側を意識したり、皮膚を広げたイメージをすると、腕の中に隙を感じたり、頭頂から紐でぶら下げられているとイメージすれば、操り人形のように身体が軽く感じたり、水に身を任せて浮いているようにイメージすると、身体の重さを支えているはずの足がスッと楽になったり、肩まで肺があるようにイメージをすると途端に呼吸が楽になったり(実際に肩まであるのだけども)。スポーツなんかでも意識の置き方ひとつで劇的に動きが変わることを考えると、改めて、意識することの大切さを痛感する。


肩甲骨周りをほぐそうと思って鉄棒にぶら下がっていただけなのに、たったそれだけで前腕がパンパンにパンプアップされてしまった。昔から筋トレをするとすぐに膨れてくれて、やった感はあるものの太くなるだけで筋力が上がったとは思えなかった。それに筋トレをすればするほどに柔軟性はなくなり、関節の可動域も狭くなる感覚もあった。

そもそも身体の使い方というか筋トレの仕方なのか、意識の使い方が間違ってるんじゃないだろうかと思うようになって、筋トレから離れてピラティスだったり整体だったりに手を出していった。


最近の興味は「筋肉を長く広く使う」という言葉だ。ピラティスやヨガなんかでよく耳にする言葉なんだけど、これは一体どういうことなんだろうと思う。

実際に試してみると、例えばつま先立ちになる動きをするとき、踵をふくらはぎに近づける、引き上げるイメージでやると、とても動きが悪く抵抗を感じるし、下手するとふくらはぎが攣る。それが逆に、ふくらはぎが踵を通って地面へと流れ込んでいくようにイメージしながらつま先立ちすると、スッと上がる。不思議だ。


筋肉の両端は腱を介して骨に付着していて、少なくとも1つ以上の関節を跨いでいる。単関節筋の場合、筋腹は近位側の骨に配置され、二関節筋の場合は真ん中の骨に配置されているようだ(あ、でも内転筋系は違う。へー。)また、筋肉は縮む方向にしか力を発揮できないので、筋肉は必ず1対1もしくは1対多でペアを組んでいる。筋肉が力を発揮するとき、その発揮の仕方によって、コンセントリック収縮、エキセントリック収縮、アイソメトリック収縮なんかがある。それぞれ筋肉が短縮、伸張、等尺の状態で力を発揮していることを言う。


筋肉を長く広く使うとか、伸ばしながら使うとかをネットで調べると、大抵、伸張性収縮のこととして説明してる。でもこれらの収縮はそれぞれ動きが異なる。足上げ腹筋を例にすれば、①足を持ち上げているときがコンセントリック収縮、②足をゆっくり降ろしているときがエキセントリック収縮、③途中で降ろすのをやめて停止している状態がアイソメトリック収縮にあたる。ちょっと疑問なのは、もし筋肉を伸ばしながら使うことが②を指しているなら、動きが非常に限定的だし、そんなことを言って意識させずとも②の動きでは自然と伸ばしながら使われているわけで、わざわざ言う必要がない。それにピラティスやヨガでこの言葉を聞くのは②の動きのときだけじゃない。


先のつま先立ちの例で考えるとコンセントリック収縮なわけだけど、踵の動きと同じように引き上げるイメージをした場合と踵の動きと逆の流し降ろすイメージをした場合とでは、動いた感覚に大きな違いがあるから、物理的な動きだけではない意識による何かしらの何かがありそうに思う。


高校や大学ではひたすらロボットのことばかり勉強してきたから物体の運動とか得意分野なんだけど、人間の身体の動きって、自転車とか時計とかそういう機構によって生み出される動きとは根本的に違うように感じる。身体の物理的な構造を単純に機械に置き換えただけでは、決して人間の動きを再現できないと思う。サッカーやバスケやゴルフでボールをリリースする瞬間の状況って機械に置き換えできない気がするし、合気道などの武術や古武道のような人間の動きは、物理的な目に見えて観測できる動きだけをモデル化しても足りない気がしてならない。意識やイメージによる作用って不思議でしょうがない。