「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

自分が焼いた豆や人様が焼いた豆に対する心境の変化

焼き方によって、淹れ方によって、何を良しとするか(評価基準)によって、同じ生豆を使っていても良くも悪くもなる。


買ってきたコーヒー豆を自分のやり方で淹れてみたけど美味しくない場合、その豆と淹れ方の相性が悪いか、それとも相性は良いけど好みの味ではないのかのどちらかだ。いずれにせよ、そのコーヒー豆が不味いのではなく、自分に合わないだけ。

同様に、仕入れてきた生豆を自分のやり方で焼いてみたけど良いと感じない場合、その生豆と焼き方の相性が悪いか、相性は良いけど好みの味じゃないかのどちらかである。はずなのに、この生豆はスペシャルティではないという評価をしがち?

最近、スペシャルティかどうかということに興味がなくなった。そこにこだわるのは焙煎の熟度が上がってからにしようと数年前に思ったからだ。ただ「スペシャルティ」という表現をしなくなっただけで、腹の中では良し悪しを見ていたのかもしれない。


富士登山を目指している人とフルマラソン完走を目指している人がペース配分について議論しても意味がないのは目的が違うからだ。その馬鹿さ加減をこの例なら理解できるのに、自分が焼いているコーヒー豆と人様が焼いているコーヒー豆を同じ方法で評価していることに、違和感を感じてこなかったのはなぜなんだろうか。向いている方向、進んでいる方向、目標としているものが違うじゃないか。焼き方が違うならそれに合わせて淹れ方も変えるべきじゃないのか。

きっかけは不定期で頂いていたサブスク豆だ。それまでは、本当に傲慢にも自分のレシピで淹れてあーだこーだ言っていたのだ。だけど、それは一体何を生むのだろうかと思ったのだ。自分とは異なる生豆を使っていて、自分とは異なる目標を持っていて、自分とは異なるアプローチをしているのに、なぜ評価だけは自分と同じ方法なのかと。その評価結果は誰の役にも立たないではないかと。


大事なのは「楽しめること」「美味しくいただけること」なんじゃないのかなと。浅煎りと深煎りを同じレシピでカッピングしたら圧倒的に浅煎りの方が美味しい。深煎りはカッピングと相性が良くないから、ざらついたり渋みを感じやすいからだ。逆に深煎りに合わせた淹れ方は、浅煎りでは酸味が強すぎて飲めたもんじゃないんだ。でもどちらの豆も相性の良い淹れ方をすれば、どちらもとても美味しくいただけるんだ。美味しくいただけるなら、もうそれだけでコーヒー豆としてOKなんじゃないのか。(コーヒーが自己表現と言われるのがわかる。ひとつの評価基準でぶった切っても誰得にもならない。互いを理解する尊重するということと通ずるものがある。)