「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

上達する秘訣

最近、デッサンをするようになりました。
ど素人が見よう見まねでやっているだけのデッサンとも呼べない代物ですが、
もともと目の前のモノを見たままに描くことに興味がありました。

一般意味論曰く、人間は二つの世界を持っているそうです。
ひとつは、言葉によってできている言語的世界 = 内在的世界
ひとつは、五感によってできている経験的・体験的な世界 = 外在的世界

前者は地図、後者は現地に例えられます。
また前者は月を指さす「指」、後者は夜空に浮かぶ「月」にも例えられます。

外在的世界は五感の世界、知覚情報の世界であり、言葉では表現し尽くせない世界です。
それをあえて言語化した世界が内在的世界です(外在的世界の表象が内在的世界)。

昔読んだ本では、自信が持てなかったり、生きにくく感じるのは、
外在的世界の表象、内在化、言語化が不十分、不適切が原因で、
外在的世界と内在的世界に乖離が生まれているからだと説明していました。

そもそも外在的世界を言語化する過程で、情報の欠落や歪曲、汎化が行われるため、
完璧に外在的世界=内在的世界にはなり得ませんが、
現地(外在的世界)を元に作成された地図(内在的世界)が不正確であったら使えないので、
完全に一致しないにしても、ある程度の正確性が必要になってくることは理解できます。

この不一致をなくしていくために必要なことは2つあって、
ひとつは、五感を鍛え、ありのままに世界を知覚すること、
もうひとつは、それを適切に言語化する能力を高めること。

そんなこんなで、その第一歩が、見たものをありのままに描くことかもと思ったのです。
そして、面白いことにやっていると、「上達するための秘訣は観察力である」と思うようになりました。


例えば、水滴をデッサンしてみると、なかなか本物のようには描けないわけです。
本物の水滴がどんなものかはわかっていますが、分かっているつもりでいて、
何も分かっていない、何も見えていないから、再現ができないわけです。

続けていると、今まで見えてこなかったものが見えてくるようになるんですが、
それでもノートの上に水滴があるようには全く見えないのです。

ちょっと前に面白い経験をしました。
Youtubeで水滴の描き方の動画を見ていたのですが、
サムネイルの画像は本物の水滴に見えたのに、
作画しているところを見ていると、描き終わっても本物のように見えないんです。
でも、いったん画面から目を背けて、
再び描き終わりだけを見ると本物に見えるんです。

どうしてそんなことが起こるのかなって思ったんですけど、たぶん
見方というか視点というか注目している場所によって見え方が変わるんだと思うんです。

例えば作画している過程を見ているときは、線の一本一本に集中していて、
何を意図してその線を引いたのか、そしてここからどうするのかを
見逃さないように注視している状態と言えます。

一方で、サムネイルや完成図をパッと見たときは、鳥の目とでも言うのでしょうか、
俯瞰するかのような、遠くから眺めるかのような、
見るともなく全体を見ている状態と言えます。


意識的に後者の視点で動画を見返すと、いつも疑問に思っていたことが腑に落ちました。
デッサンの動画を見ているときにいつも疑問に思うのは、
「なぜ今そこに手を加えたのか」でした。

さっき触った場所なのに、またそこに線を入れるの?なんで?
え?さっき描いたばっかりなのになんで消しちゃうの?どうして?

水彩画の動画でも、最初は淡い色でボヤ~っと塗ってるのに、
徐々に徐々に明確になっていくので、
こんなことを計算してやれるもんなのか?!って不思議でしょうがありませんでしたが、
常に俯瞰して見ているのかと合点がいきました。

全体のバランス、それっぽく見えるように常に俯瞰してチェックをして、
影が足りない場所、ハイライトが足りない場所、輪郭がはっきりしないところ…
少しずつ全体的にバランスを崩さないように描いているんだと思います。

ボクは、細かいことに集中しすぎました。
とらわれすぎました。執着しすぎました。
まさに、「見るともなく全体を見る」ことが大切なのですね。
この言葉は、沢庵和尚の不動智神妙録という本で知りましたが、ぴったりです。


自分がデッサンするときに足りないのは、見るともなく全体を見る視点なのか。
常に、どのタイミングでも、本物に見えているかどうかをチェックする目。
これは、物事を比較して評価しようとするときの目とも言えます。

もっと言えば、上達するために必要な視点でもあります。
目標とするものと自分との差分しかり、目標とするものがどんなものであるかを観る目。
上達するための秘訣は、物事をありのままに観察することなのだと思いました。