「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

「集中」とは

集中していると、ふと集中が途切れる。
まるで我に返るような感じで。

ふっと集中から離れて我に返るような、途切れてしまうような感覚に気づくたびに、
いかんと思って集中に戻そうとする、無理やり連れ戻そうとする。力づくで。
集中しようとすればするほどうまくいかない。頑張れば頑張るほど。

そうやって作った集中は、集中してる風でしかなく、
頑張って集中している風を作ってるに過ぎなかった。

カッピングで風味が見れなくなること
人の話が聞き取れなくなること
目の前の風景を見ているようでみていないこと
たくさんある。

知覚しようとしてるつもりで、目や耳や鼻や舌に意識を集めてるだけ。
月を指さす自分の指を見ている状態なんだと思う。

これは培ってきたものでもある。ヴィパッサナーを通して、整体を通して。
からだ全身を走査することで、無自覚に力んでいる個所に気づくことで。
執着を手放すために。

集中って何だろうなって改めて考えてみたら、
集中するとは、そんなことじゃないのかもしれないなって。
力んで頑張ってぎゅっとしがみ付くようなものではないのかもしれない。
目を凝らすことが集中なのではないのかもしれない。

そもそも集中しようとするから、そこから途切れて我に返る感覚があるのか。
なら、そもそも集中させない。とらわれない。執着しない。
流れてくるものをただ、眺めるように観察することが、集中することなのかもしれない。
ちょっとラフにリラックスした状態の方が気持ちよく集中できるのと同じで。

何かに気づこう、何かを分かろう理解しようとするのでなく、
ただ、目の前に広がるものを眺めてればいいのかもしれない。
何かに気づこう、何かを見つけようって躍起になればなるほど、
頑張れば頑張るほど、結局、何も見つけられないのかもしれない。

風景を眺めるように。
力まず。リラックスして。ゆったりとした感じで。

観察することを集中して拾うことと勘違いしていた。
観察するというのは眺めることなんだ。

眺めるように知覚する。
拾おうとすると力む。
能動的に取りに行くと力む。
上手くやろうとすることと似てる。
取り込むのではなく流れ込んでくるものをただ眺める。

久しぶりにアーナパーナ瞑想をして思った。
ただただ、眺めるだけ、観察するだけのはずが、からだ中が力んでいる。びっくりした。
歯磨きしてると、つい顎や首に力が入ってしまうのと同じ感覚だ。
安定させようとしてなのか、ぐっと力が入ってた。

眺めてるってのは、頑張らない状態。
からだの自然な反応を殺してきたから、不自然になってきた。
眺めるとは、からだの自然な反応に任せること。
それはつまり脱力することと同じ。