「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

包丁さばきの練習ではなく、料理を作るために大切なことは…

もう年の瀬ですね。12月に入ってしまいました。
時間が経つのはとても早いものです。

どうもお久しぶりです。
三日坊主どころではないですね…。

考えたことや思ったこと、気づいたことは頻繁にメモするのですが、文章に起こそうとした途端、いろんなことが頭に浮かんでしまい手が止まってしまうのです。

どうも完璧主義のようです。どうしても文章を整えようとしてしまい、その結果、どうにもならなくなってしまうみたいです。このブログは備忘録であり、雑記であると自分で書いていたにも関わらずです。

上手に書こうとしてしまうのだけど、上手に書けるわけがない。普段からこんなふうに書いてないんだから。文章を書く技術は、文章を書くことでしか上達しない。わかっちゃいるんです。

ボクの好きな人で、JIDAIというアートマイムをやらている方がいらっしゃって、先日のブログでも「目の前の料理を完成させるなかで、問題点に気づいていけばいいのであって、個々の問題に立ち止まりすぎてしまうと永遠に料理は完成しません」とおっしゃっていました。

まさにその通りだと思いました。
でも思い返したら、焙煎でも抽出でも文章を書くにしても身体を整えることにしても、個々の問題にばかり取り組んでいました。料理を作らず包丁を研いでいたのです。動きを整えることをしないで身体を整えていたのです。理屈ばかり考えて行動には移そうとしないのです。

よくよく考えれば、たぶん失敗したくなかったんだと思います。できない自分に向き合えなかったんだと思います。料理をしたってうまくいかないのは分かり切っている。だから「まず」包丁さばきばかり練習していたのだと思います。何事も最初はうまくいかないのは当たり前で、でもそれをやることを通して上達していくはずなのに。

これって、ドリブルやシュート、トラップやリフティングなどを「まず」上達させてから、サッカーをしようとするようなものでしょうか。でもおかしいですね、子供の頃はミニゲームばかりやって練習なんて大嫌いだったのに…。何が違うんでしょうか…。

「楽しむ」こと、でしょうか。
子供の頃はミニゲームは楽しくてしょうがなかったですね。練習はつまらなくてつまらなくて大嫌いでしたが。今では、カッコ悪くならないように、無様にならないように、恥をかかないように、こっそり練習することを大切にしているということでしょうか。あらあら、まぁまぁ、とんでもない見栄っ張りですね。

子供の頃はミニゲームをすることが楽しくてしょうがなかった。
でも今は、無様にならないように取り繕い、無難に整えようとする。

料理することを、焙煎することを、抽出することを、絵を描くことを、文章を書くことを、あの頃のミニゲームのように楽しめたら、もしかしたら個々の問題に立ち止まり続けることはなくなるかもしれませんね。