「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

ありのままの自分を表現すること=無様で下手糞な自分を晒すこと

昨日、youtubeでこんな言葉を知りました。
「人にして遠き慮り無ければ、必らず近き憂い有り」

どうやら論語に書かれている言葉のようですが、そこでは「今の不安は将来について考えていないから」と説明されていました。フルマラソンでもゴールがわかっているからこそ「今」このくらいのペースで走ろうと決められるわけで、ゴールを定めていないにも関わらず「今」自分が正しい方向へ進んでいるのか不安でしょうがないなんて当たり前だと。そりゃそうだと思いました。なるほどねと。

ところで、ボクは自分で立てた目標を達成できたことがほとんどありません。なんなら、このブログがまさにそうです。ブログを書いてみようと思い立って、たった2つの記事をアップしただけで止まってしまいました。

こんな記事を書いて意味があるんだろうか…誰が読むっていうんだ…どんなふうに書いたらいいんだろうとか。客観的にみれば、ブログを書いたことがないのだから当然の悩みで、おそらく誰もが通る道なのでしょう。でも、本当に何を書いていいのかわからなくなり、どう書いていいのかもわからなくなり、3カ月ストップしてしまいました。

そんなときに、いしかわゆきさんの書く習慣という本に出会いました。まだ読んでる途中ですが、とても励まされる内容でした。自分を素直に表現しよう。自分語りでいい。誰トクでもなくていいから自分のために書いていい。好きでなきゃ続けられない。などなど。「ゲームの才能がなくてもゲームをやっていいのと同じように、文才がなくたってブログを書いていい」と言われるととても勇気が湧きました。(だから、思った通りに、あふれてきたとおりに綴っている文章をアップしていますw)

同時に、自分がいかに人の目を意識しているのかがわかりました。思えばブログだけなく、コミュニケーションを上達させたいとか、太極拳を学びたいとか、整体を学びたいとか、ヨガをやりたいとか、やりたいと思ったことは非常にたくさんありますが、どれもやり始めることはできていません(いずれも独学はしていますが)。誰かと会って会話をするのは苦手です。苦手だから上達させたくて、誰彼構わず会話をしよう!とはならなくて、傾聴だとか共感だとか、発声や呼吸、観察など技術やテクニックの勉強に走ってしまうのです。実践ではなく練習でどうにかしようとするのです。その理由が人の目なんだと思うのです。きっと怖いのです。ちゃんとできているだろうか、上手にできているだろうか、間違いなくできているだろうかと。上手にやろう、ちゃんとしよう、整えようという気持ちが強すぎて。失敗したくない恥をかきたくない無様になりたくないという気持ちの裏返しだとも思います。完璧主義と言われるのは、この結果なのかもしれません。

せっかく目標を決めていても、ありのままの自分を素直に表現するというか、無様で下手糞な自分を晒すことに耐えられず、とにかく取り繕うとしていたのだと思います。取り繕えてからお披露目しようと。思い起こせば、自分が達成できたことなんて一つもないと感じるのは、何をやっても苦しくてたまらないと感じるのは、できない自分を晒すことが嫌で嫌でしょうがないにも関わらず、自分よりもできる人は星の数ほどいるから一生取り繕えることはなくて、結局どんなに頑張っても無様な自分を目の当たりにするしかないからなのでしょう。

だからこそ、いしかわゆきさんの言葉で救われます。文才がなくたって書いていいんだよ、ちゃんとしてなくていいんだよって励まされた感じです。無様で下手糞な自分の姿を晒すことに変わりありません。ですが、あ…いいんだ…って思えるようになったのです。垂れ流しでいいんだって。いろんなことでちゃんとしようと思って生きてきました。無様ではいけない。ちゃんとしようちゃんとしようって。でも、ちゃんとしてなくたっていいんですね。ブログですからね。超個人的な営みですからね。これはもう研究畑にいた弊害ですね…。

同時に、好きでなければ続けられないって言葉で大切なものに気づかされました。自分が素直に楽しめないものを好きになったりなんてしませんから。好きでなければ続けていけないし。続けていけなければ上達もないと思うのです。やりたいなと思ったからには興味があるわけで、それがもしかしたら好きに発展するかもしれないから、だからちゃんとしなくていいから「楽しんでやってみよう」と思うのは大切なことだと思うのです。

今までのことを振り返れば、技術の練習ばかりしてましたから、つまらないし楽しくなかったです。さっきも書いた通り、いくらやっても上には上がいて、できない自分を目の当たりにしなくてはいけないから、苦痛に感じることも多くありました。いくらやっても上達しない。自分には才能がないって。ちゃんとしよう、整ったものを表現しようとしていました。ちゃんとしなくていいから楽しんでやろうなんて、これっぽっちも思ってなかったです。だから苦しかったのかと今は思います。

人の目が気になってしり込みするのは、無様で下手糞な自分の姿を見られたくなくて、ちゃんとしようとするからであって、これ自体は健康な反応だと思います。ですけど、ちゃんとしなくていいから楽しんでやろうとした方が、精神衛生上いいのかなと思うし、上達が早い気もします。そして何よりやっていて楽しいと思うのです。

できなくて笑われる恥ずかしさ、できない自分を晒す恥ずかしさを傍に置いたまま、やること自体を楽しめるようになったら、なんでもできるような気がします。