「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

さっきの話をもう少し…

やってみて思ったのは、投入量が80gであっても1.4kpaの火力が必要ということだ。バッチサイズが小さくなれば火力も低くて問題がないと思っていたけどそうではないみたいだ。

バッチサイズが大きくなると必要となる熱量が増えるため、火力や投入温度をあげなきゃいけない。逆に、小さくなれば火力は小さくてもいいのかなって思っていた。そりゃ、バッチサイズに応じて含水量が決まるわけで、蒸発に必要な熱量も増減するわけで、理屈としては間違ってないよなって思う。

でもなんでそうならなかったのか。

もしかしたら一番影響があるのは、攪拌効率ではないだろうか。って思った。

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例えば1kgの固体に熱を与えると熱伝導によって熱が伝わっていき、その早さは熱伝導率に比例する。一方で、1kgの粒体に熱を与えた場合、攪拌によって温まった粒子が移動し熱が拡散され、その早さはその攪拌能力に比例する…のではないだろうか。もしそうなのであれば、攪拌能力を熱伝導率と見立ててもいいのでは?なんて思う。

生豆の焙煎を考えるとき熱伝導率は高いほうがいいんじゃないかなぁって思ったりする。中心部分まで熱を素早く届けるためには必要な要素だと思う。だから、ナチュラルよりもウォッシュドの方が焼きやすく、キレイな印象になるんじゃないだろうか。そこから妄想すれば、釜に投入された生豆全体に素早く熱量を届ける(熱伝導率を高める)には、バッチサイズを下げて攪拌効率を上げることが必要なんじゃなかろうか。

バッチサイズが大きくなればなるほど、投入した生豆全体が一様になるまでに時間を要し、そもそも同じ状態になりにくくなるというのは想像できるので、バッチサイズは焼きの均一性を左右すると言えるのでは。

以前にも書いたけど、発火の原理は、熱が拡散されず留まることで、部材が発火温度を超えてしまい火が付く。もし、バッチサイズが大きく拡散能力が低い状態で、火力が大きければ、発火と同じ状況になるのは理解できる(攪拌効率に対して火力が高い、火力に対して攪拌効率が低い)。ゆえに火力を抑えざるを得ない。では、バッチサイズを小さくしたらどうなるだろうか。攪拌効率が向上し、発火のリスク(実際は発火しないけども表面焼けのリスク)が下がるから、火力を上げても問題ないんじゃないだろうか。

※火力は、生豆の含水量や硬さ、精製処理によって決定されると思っていたけど、攪拌効率(バッチサイズ)よって決定すべきなのかも?

ん?ちょっと待てよ。火力に対して攪拌効率が高すぎる(or攪拌効率に対して火力が弱い)と、どうなっちゃうんだ…。…乾燥するのか…乾いた木の皮の印象になるのか。そうなると単純にバッチサイズを下げてしまうと攪拌効率の高さに火力が間に合わず、乾いた印象になるのか。そうなると、バッチサイズが小さいほど火力を高くしていかないと、適切に焙煎できなくなるな。

さっき書いたようなとんでもない条件で焙煎しても焼けてしまったような印象を受けないのは、そういう理由からなのかもしれない。

自分の文脈、他人の文脈

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ちょっとここ最近の焙煎について振り返ってみる。

焙煎を始めてもうすぐ丸7年。書籍、雑誌、ネット…国内外問わず焙煎に関する情報を摂取してきた。しかも、まるで矛盾する情報が平然と流れてくるなかで、ひたすら集めてきた感がある。何も考えずに…。

「生豆に熱を加えて化学変化させるだけ」そう思ってた。どんなコーヒー豆でも全部、地続きなんだと思ってた、全部繋がってるんだって思ってた。だから選り好みせずに、ひたすら情報摂取に励んでた。でもそうじゃなかった。焼き手が見ている世界は十人十色、千差万別なのだ。向いている方向が違えば、進み方も当然違うのだ。

身体の勉強をしていて幸運だったのは、早い段階から自分に合った方法論を見定められていたことだ。整体の世界もたくさんの流派というか考え方が存在する。皆、人間という同じものを見ながらも、全く異なる理屈によって施術し、そして結果を出している。もしコーヒーと同じように、手あたり次第に情報摂取に励んでいたら、今のようにはならなかっただろう。

ありがたいことに今は、自分も表現するならこんな味わいがいいと想えるコーヒーがある。そこに向けてこの一年ほど焼いてきた。改めて思うのは、先入観ほど当てにならないものはない。当てにならないなんて書いてしまうと、これまで仕入れてきた情報が全部間違っているというニュアンスになるが、そうじゃなく、そもそも前提が違うのだ。異なる文脈の中では、どんな情報も当てにならないのだ。正しくなんてなりようがない。情報は文脈の中でこそ正しく意味を持つ。その文脈を捨て、ただの情報をひたすら集めても惑わすタネにしかならない。それらの情報は誰かの何かしらの文脈の中で発見された宝であって、その文脈を探り当てない限り活かすことはできない。

焙煎中に全閉にしてはいけない理由は何だろうか。ダンパの存在理由は一体何なのか。蓄熱とは何なのか。投入温度とは一体何のことなんだろうか。投入温度が高いと表面が火傷をしてしまうのは本当だろうか。蒸らしや水抜きは何のためにあるのだろうか。メイラードに時間をかけると甘さが出るのだろうか。化学反応には時間が必要なんだろうか。ハゼたら火力を抑えるのはどうしてだろうか。DTRは20%がいいのか。RORは逓減させるべきなんだろうか。…

挙げればきりがないほどたくさんの疑問が毎日毎日毎日毎日、溢れてくる。季節は流れ時々刻々と状況が変化する中での検証は困難で、回答できるようになったものはほんの僅かだ。今、ケニアを焼いているのだけども、投入温度240℃、ガス圧1.4kpa、投入量32%で、全閉で投入しハゼたら全開、煎り止め224℃、焙煎時間5分。浅煎り、滑らかで、キレイ(…全然まだまだだけど…)、酸味は穏やかで、何より甘い。条件だけ見ればとんでもないし、これで浅煎りになるのかよって思うかもだけど、ここまできてやっと、表現したいコーヒーに近づいている手ごたえを感じてる。一体何が正しいのか。やってみなきゃわかんないことだらけだ。

コーヒーの抽出…

ボクにしては珍しく抽出の話。
バーに立たなくなって早数年経つが、抽出について理解が深まったのはむしろバーから離れてからだった。そして昨年、エスプレッソトレーニングの依頼を受けてから、だいたい理屈が固まった感があった。

面白かったのは、エアロプレスとデルタコーヒープレスの比較だ。使用するコーヒー豆、挽き目、粉量、湯量、抽出時間、使用するペーパーまですべて同じにして抽出ができる。

出来上がったコーヒーの味わいの違いは、とても面白い違いになった。特筆すべきはデルタコーヒープレスの質感の良さだ。持っている人はすでに実感していると思うが、コーヒーがトゥルントゥルンになる。赤ちゃんのほっぺかって思うほどなめらか。ゆえに(?)甘さも感じる。

抽出器具のレビューをしているサイトをのぞいてみると、ペーパーの違いがそれを生んでいると説明しているものもあった。

しかし今回の実験では、すべて同じものを使っている。にもかかわらず、これだけ明確な違いが生まれてしまうのは、なぜなんだろうか。

エアロプレスは浸漬式で、デルタコーヒープレスは透過式なので、この抽出原理の違いが味わいの違いを生んでいることは明白だが、抽出原理の違いとは?

それは抽出比率(Brew Ratio)の違いである。それもまさに抽出が行われているときの抽出比率(Brew Ratio)である。

例えば、レシピで16倍に設定していたとすると、エアロプレスで抽出中の抽出比率(Brew Ratio)は間違いなく16倍だろう。一方、デルタコーヒープレスの抽出中の抽出比率(Brew Ratio)はどうだろうか…。どう考えても1倍以下だ。

この抽出比率(Brew Ratio)の違いによって、味わいが明確に変わってくる。抽出比率(Brew Ratio)が高いエアロプレスの場合、平衡状態になるまでに時間を要するため、成分の拡散が止まらないわけだ。その一方で、比率の低いデルタコーヒープレスの場合、ちょっと成分が出たら平衡状態になる。

この違いを少し想像してみると、おそらくデルタコーヒープレスの場合、分子量の小さい成分から拡散されていくんじゃないかって思う。成分がちょっと出たら平衡になる状況で、分子量が小さく移動しやすい酸味成分を差し置いて分子量の重い甘さや苦味が出てこれるとは思えないからだ。そうなると分子量の小さい成分からお湯に回収されていくと言える。それがエアロプレスになると、一向に拡散させようとする力が衰えないわけだから、酸味と同時に甘さや苦味が引き抜かれていくんじゃないだろうか。万遍なく引き抜いてくるというか。

もしこういう構成になっているのだとすると、エアロプレスはサラサラと軽く複雑な味わいを感じ、デルタコーヒープレスはトロっと重く飲みごたえのある味わいになるのも理解できる。抽出されたコーヒーの液体の温度がどちらも同じだとすれば、成分構成的に揮発しやすいエアロプレスの方が香りを感じやすいと言える。また、チャネリングも含めエスプレッソの抽出速度による違い、ドリップの注湯速度による違いも同様の理由だろう。

うまく調整すると、エアロプレスとデルタコーヒープレスの濃度や収率を同じにすることもできるけど、そういった数値が同じでも味わいが違うよねっていうのがわかる面白い実験でもある。まぁ、そもそも収率は計算値であって要は平均値なので、分散値を考慮せずにはいられず、平均値が同じでも分散値が違うことによって、味わいが違ってしまうから、数値が同じであることは同じであること以外に意味を持たないんだけど…。閑話休題

抽出比率(Brew Ratio)の影響は大きくて、味わいを決める要素のようだ。それを確認する実験があって、もし同じ大きさのカップが9つある人はやってみてほしい。

挽き目は、① いつもの挽き目、② ①から2メモリ粗くしたもの、③ ①から2メモリ細かくしたものの3種類。そして、抽出比率(Brew Ratio)もA.14倍、B.16倍、C.18倍の3種類用意する。これらの組み合わせで9つのカップが出来上がるので、それぞれをカッピングして、(濃度の差はさておき)味わいが似通っているものをグルーピングしてほしい。

ボクがやったときは、抽出比率(Brew Ratio)が同じものは、挽き目が何であっても同じような味わいになっていた。それまでのエスプレッソの経験上、挽き目が異なれば味わいが大きく変化するもんだと思っていたが、挽き目の影響は味わいの構成よりも濃度感の方が大きいみたいだ。一方で、エスプレッソの抽出のときに気軽に抽出量をいじってしまうほどに大したことのないものだと思っていた抽出比率(Brew Ratio)が、味わいの構成を決める重要なパラメータであるとは驚き桃の木山椒の木。そうなると、ドリップの難しさは、抽出比率のコントロールな気がしてくる。湯数の調整は、抽出比率(Brew Ratio)のコントロールのためだろうか。そういえば46メソッドで湯数によって甘さを引き出すという説明があったが、それも納得ができてくるか。

五感を磨くには

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その始まりはカッピングだったと思う。何かを理解するために観察と仮説と検証の繰り返しは必要だけど、出発点の観察がそもそもお粗末では、立てた仮説は的外れになり検証が成り立つはずもない。観察の重要性を理解しているものの、それが定量的に表現できない五感情報ともなるとなかなか上手く仮説検証が回らず、迷子になる。

五感の信ぴょう性…嗅覚・味覚の信ぴょう性を上げるためには、何をどうしたらいいのだろうか。より沢山のコーヒーに触れることが必要だとよく聞くが、それだけで上達できるとは思えなかった。だってカッピングした数なら負けない自信があるもん。だから上達するには、数だけでなく質の問題もあるのだと思ってた。


今まで触れたことのない絵を描く(模写)という経験を経て、自分でも驚くほど上手に(そっくりに)描けたことで、「見る」ということの概念が変わった。大人になればなるほど、「ただ見る」ということができなくなるのだなぁと。文字を目にすれば「ただ見る」ことができず「読んで」しまう。絵や写真を目にしても、そこに何が映っているのかを「観よう」してしまう。自分の中にある似たものを探し出そうとする。一度それだと「認識」した途端、それ以上細かい情報を拾おうとはしなくなる。だってもうわかってるんだから。一度当てはめてしまえば、もうそれ以外に見えなくなる。目に映っているモノが頭の中のソレに置き換わってしまう。見ているはずなのに、もう目の前のモノは頭に入ってこない。目を離してしまえば、もう細かいことは何も覚えてはいない。メガネをつけていたことは覚えているけど、どんなメガネだったかは思い出せない。

これは人の話を聞いているときにも起こる。一字一句どんな文章でしゃべっていたかは覚えていないけど、こんな意味合いのことを言っていたというのは思い出せる。相手の言葉を一字一句聞いているというより、自分の辞書の言葉に置き換えて、何を言っているかを理解している感じ。

 

こういうことって、嗅覚や味覚にも起こってるんだろうか。目に映るモノが何であるかを理解しようとするとき、果たして意識は目の前のモノに向いているのだろうか。頭の中の記憶に向いてしまっているんじゃないだろうか。人の話を聞いているとき、果たして意識は相手の言葉に向いているのだろうか。頭の中にある自分の体験に向いてしまっているのではないだろうか。カッピングしているとき、果たして意識を珈琲そのものに向けることができているだろうか。今感じたそれはどんなフルーツに似ているだろうかなんて、記憶を巡らせていないだろうか。

ある人が言っていた。無理やり言語化しなくてもパッと出てくるもんだと。ボクはよく幽霊の話を出すのだけど、自分が見えるものしか見えないし、理解できるものしか理解できない。自分を超えるものは見えないし理解できないし、存在自体感じることができない。幽霊が見える人にとってはそれはそこら中に見えるのだろうけど、見えない人にとっては何をどう頑張っても見ることはできない。感じれない人間が頑張って感じようとしても感じることはできないのだから、自分が感じれるものを感じていたらいいんだと思うんだ。パッと出てこない時点で、今自分が感じたこれは何だろうかって問答自体、問題になる。なんてったってその瞬間、カップから目を離しているんだから。

単調なものであるならまだしも、複雑であればあるほど一見してわかるはずもなく、そういうものほど考えようとする思い出そうとする探ろうとするよりも、何度も何度も繰り返して観察する必要があるんじゃないだろうか。

 

どんなにひたすらカッピングしていても、必死に頭の中を検索していたのでは、カッピングしていないのと同じじゃないだろうか。チラ見した程度の情報で頭の中を検索したって何も出て来やしないだろうし、何かヒットしたとしてもそれは本当に目の前のモノと同じと言えるのか。「分かった」ことに浮かれて、見ているモノがヒットしたソレに置き換わってしまっていないだろうか。

残念なことに、必死になればなるほど頑張ろうとすればするほど焦れば焦るほど、目の前のカップから頭の中へ意識が奪われてしまう。必死になってひねり出したソレにあまり手ごたえを感じれずにモヤモヤして、負のスパイラルに突入する。一歩引いて距離を置いてフラットにクールに眺めるくらいに気持ちを楽にして、やらないといけないんだなーと思ったりする。

 

カップに向けていた意識が「知らぬ間に」頭の中へ向いてしまっていたのは、意識は猿のように飛び回るからなのだそうだ。そういえばそんなことをヴィパッサナーで聞いたっけ。ヨガの教室でも言ってたか。自分の意思とは無関係に勝手気ままに飛び回る意識をこれと決めた何かに向け続ける練習として瞑想があるなら、文字を見るのも話を聞くのも風味を感じるのも上達するんではないだろうか。

タンスの奥で眠っていた「瞑想する習慣」を引っ張り出してきて早1ヵ月。毎日2時間くらい瞑想してるけど、一番大きな実感は、頭の中が静かになったこと。透明感というかクリアになった感じで、そのおかげか、まるでクリーンカップのように、香りを明確に感じられるようにもなった。香りを感じても頭に意識が奪われず、またパニックを起こしたように意識がどっかへ行ってしまうこともなく、落ち着いて目の前の香りを眺めてられるようになったのは、ここから先の「香りの認識」の前段階として嬉しい成果だと思う。

蓄熱とは一体なんだろうか

スキレットやロッジと中華鍋の違いは一体なんなんだろうか。

パッと思いつくのは、熱容量(比熱×重量)の違いである。
スキレットやロッジの方が熱容量が大きい。

比熱の特性を引き継いでいるから、熱容量が大きいほど熱しにくく冷めにくい。

つまり、温度変化のしにくさを表している。


一方、素材に熱を与えるためには温度差を作らないといけない。

温度が同じ物体同士では、熱の移動は起こらないためだ。


さらに、自然発火とは、局所的に与えられた熱量が拡散せずに留まることで、
素材の発火温度を超えてしまい、発火に至る。

これは熱伝導率の問題だけど、拡散速度を超えて熱量が供給されても
同じ問題が起こると思う。


これらのことから、瞬間的に温度を高められる中華鍋は、
素材に対して大きな熱量を瞬間的に与えることができ、
それが素材を痛める温度を超えてしまうことで、
「焦げ」という症状を引き起こすのだと考えられる。

バーナーの変化がダイレクトに食材に伝わってしまい、
火力操作および釜の温度制御がシビアであると言える。

板厚が薄い釜の場合、バーナー操作に繊細さが必要になるし、
バッチサイズは大きくできないんじゃないかと思う。

中華鍋でハンバーグを焼くと水分が出てしまって上手く焼けないし、
スキレットでチャーハンをやるとべちゃべちゃになってしまって上手くいかない。
そういう向き不向きは、こういう理屈でできているのかなと思った。




焙煎を初めてすでに7年目を迎えたが、これまでずっと温度曲線やガス圧、
ダンパをどのようにすれば、思い通りの焼きになるのだろうかと考えてきた。

ここ最近、1バッチ目と2バッチ目の味わいを合わせられるようにしようとか、
適切なインターバルを取れるようにしようとかしていたことで、
温度曲線の投入以前、プロファイルの左側に目を向けるようになった。

確かにこれまで上手くいかなかった原因が、
プロファイルには映らない温度曲線の左側にあるのかもしれないと考えると、
うんざりしかけてたやる気が少し顔を上げてくれる。

適切な暖機とは一体何だろうか。
適切なインターバルとは一体何だろうか。
何をもって適切だと判断するのか。

最初は1バッチ目と2バッチ目が同じ味わになるような
暖機やインターバルを適切と呼ぼうと思ってた。

どんなプロファイルであっても1バッチ目って、透明感が深い。

だのに、2バッチ目になるとそれが消える。
プロファイルがどんなにトレースできていてもだ。

こうなると、温度が高いからとか温度が低いからという話では説明できない。

バッチサイズを250gから80gに下げてやってみても同じで
変わりがなかったから、火力が足りないって話でもない。

うんざり、再び…。って思ってて、ひとつアイディアが閃いた。
熱平衡で焙煎したらいいんじゃないかって。

例えば、ガス圧0.6kpaで暖機していると、ある温度で上昇が止まる。

それは釜に対する加熱と釜からの放熱がトントンの
熱収支がゼロの状態になったからだ。

(沸騰してるお湯と同じ状況かな)

これを熱平衡と呼ぶわけだけど、ここに生豆をぶっこんでみると、
当然熱収支がマイナスになって釜の温度が下がる。

が、即座に、バーナーからの熱量がそれを熱平衡へ押し返そうとする。

この押し返す分の熱量で豆を焼けるんじゃないかなーって思ったのだ。

(沸騰したお湯にブロッコリーを入れるようなもんかな)

もともと平衡だった状態から生豆が吸熱し、釜から熱を奪う。
即座に、バーナーから供給された熱量がそれを補う。

これは熱平衡の周辺で行われる動きなので、
大きな温度変化は伴わないと思われる。

さらにバッチサイズを小さくすれば吸熱量が減るので、
より釜の温度変動が小さくなるはずである。



この熱平衡というアイディアであれば、
1バッチ目の透明感を説明できるんじゃないかなって思った。

温度が高いからとか低いからでは説明できないけど、
釜の温度が、熱平衡から上昇もしくは下降しながら焙煎してしまうと、
透明感がなくなってしまうと説明できたら素敵だなぁーっと思う。



のだけど、ここ最近、気温が低くなってる。

「熱収支」というくらいだから、熱支出が変動すると、なかなか困る。

そして投入前の生豆の温度も5℃下落してる。

吸熱量が変動されると釜の温度変化も大きくなるから、検証する身としてはつらい。

焙煎室にエアコンが欲しいなぁという感じ。

環境要因で未だに確信は得られていないけど、アイディアとしては面白いと思う。


ここ最近は、7分前後で煎り止めてる。

投入してから一切触らないし、気にするのは爆ぜてからの時間だけ。

水抜きとかメイラードとか考えなくなった。

豆は勝手に焼けていく。そのおぜん立てをすればいい。環境を整えてやればいい。

そんな感じで焙煎できたらいいなぁと、いまは思う。

同じ味わいに仕上げること

例えば「同じ煎り止め温度、同じ焙煎時間であっても、途中経過が異なれば、同じ味わいにはなり得ません。」には、焙煎している人間として納得感があります。途中経過が違うんだからそりゃそうよねって。そして「それは煎り止めだけの話ではなく、例えばYellowingでの温度と経過時間が同じであっても、そこまでの経過が異なれば同じ味わいにはなりません。」も確かにそうだというふうに思います。これを細分化していくと「投入から1秒ごとの温度変化が同じでなければ、同じ味わいにはなり得ない」という理屈が成り立つことに気がつきます。

逆に言えば、温度曲線が同じであれば、同じ味わいになるということですが、それよりもむしろ、同じにならねーじゃねーかって経験の方が豊富です。「同じ焙煎機を使っていても、個体差があるから同じように焼いても同じ味にはならない。」焙煎を始めたころ、いろんなところでこういう話を聞きました。同じにならない経験を沢山していたのでボクも常識としてそう思っていました。


だけど、やっぱり最初の理屈は正しいと思うんですよね…。
ボクには目標とするコーヒー豆があるので、それに近づこうといろいろ考えながら焙煎をしてきました。焙煎を始めてから7年。正直言って、一度も同じプロファイルで焼いたことがありません。前回よりも良くしようと、少しでも改善させようと、いろいろな変更を常に加えてきたからです。そして、あまりにもでたらめな結果に、最近うんざりしてます。科学実験では、入力に対する反応(出力)の傾向からブラックボックスを解析していくわけですが、あまりにもその傾向がなさ過ぎて、焙煎機におちょくられている気分です。

あまりにも長い期間、思いつく限りの手を試してもその傾向がつかめず、モチベーションもだだ下がりの状態なので、不本意ながら「同じに味にする」というところに目を向けざるを得なくなりました。いやそもそも自分が良いと思ってもいないカップを再現できても意味がないだろっていう声が頭に響きますが、この7年、唯一手を出していない領域なので仕方なく。


ただ有り難いことに、実際に「同じにする」を意識すると、いろいろ考えなくてはいけないところが見えてきました。とにかく同じだと思えることをやってみました。投入温度から初期火力、ダンパ操作や操作するタイミングなど、すべてを合わせて焼いてみました。まぁ当然のごとく温度曲線が合いません。ええ、わかってましたよ、7年前から。

7年前はここで立ち止まってしまいましたが、問題はここからです。焼き方を同じにするわけですから、初期設定や操作はすべて同じにします。そのうえで、温度曲線が同じになるためにはどうしたらいいか。焙煎中は決められたことしかできませんので、調整できるのは投入前のインターバルだけです。

これまでインターバルは、同じであればいいと思っていました。毎回毎回どんなときでも同じインターバルを取っていました。が、それが適切であるかどうかは考えもしませんでした。何をもって適切とするのか…。どう変えればいいのか…。同じ温度曲線になるようにと考えれば、自然とインターバルの取り方も決まってきます。単純なのは、ペースが早すぎるのであればインターバルを長く、遅すぎるのであれば短くとればいい。同じ生豆で、同じバッチサイズで、同じ操作で焙煎して、同じ温度曲線を描けたなら、そのインターバルの取り方は適切だったと言えると思いました。

ただ現状取り組んでいるのは、3バッチ目以降に焙煎したものを2バッチ目と同じプロファイルにすることだけです。1バッチ目と2バッチ目は合いませんでした。どうやっても。何でこんなことが起きるのかわからないのですけど、これは火力を落としていかないと同じになりそうもないなーという印象です。でも今は、とにかく2バッチ目以降だったらまったく同じように焼けるようにすることを目指します。

ちなみに直近で2,3バッチ目のプロファイルをほぼ同じ曲線にできました。誤差1℃未満で推移したバッチは味わい的にもほとんど同じでした。まだこれからエイジングしながら観察は必要ですが、同じプロファイルならある程度同じ味わいにはなりそうです。同じ生豆で、同じバッチサイズで、同じ操作で焙煎して、温度曲線が同じになったということは、生豆投入直前の焙煎機の状態を同じにすることができたということになります。

ここに至り、おちょくられていた理由がわかりました。
これまでのやり方では、下のようなバッチを並べてカッピングしていました。
 A.あるプロファイルで焼いたバッチ
 B.Aと同じプロファイルで焼いたバッチ
 C.Aと同じプロファイルに、ダンパ操作を加えたバッチ
AとBの曲線も味わいも違う状況で、AとCの違いがダンパ操作によるものだと言えない。にも関わらず、そうだと理解していたのですから翻弄されるのは当たり前の話でした。同じ味わいに焼けるようになって初めて、「ちょっと火力を落としてみる」という操作によって生まれた味わいの変化を比較できるんだと。


このやり方を俯瞰してみると少し道のりが長いことが分かりました。
現状、2バッチ目以降を合わせよう計画で、これは純粋にインターバルの取り方で解決しそうです。そしていずれは1バッチ目と2バッチ目を合わせられるようになりたいのですが、ここには同じ操作にしてたら同じにならんけど問題があるので、操作の仕方を変えても同じ味わいになるのかどうか…全く見えないので厄介かと。
そして次は日をまたいだプロファイルの再現です。こちらは暖機の仕方が問題となりますし、変数が増えるので検証に時間がかかります。天気、気温、湿度、暖機するときのガス圧と暖機時間、だけでなく一番厄介なのは常温時の生豆温度です。真夏と真冬で20℃近い差がありますから、同じプロファイルってできるんでしょうか…。
ただ、こうやって長い時間をかけて同じプロファイルを焼き続けて、操作と味わいがリンクし、少しずつプロファイル自体を変えていけるということなのかもしれません。

プロファイルの再現性が先決か…

焙煎という技術を上達させるためには、何をするべきなんだろうかと常々考えてきた。

がむしゃらに焼かなければ始まらない、ひたすらカッピングしなければ始まらない…そうかもしれないけど、がむしゃらに焼けば、ひたすらにカッピングすれば、どうにかなるのか。

つべこべ言わずに焼いたらいいのかもしれないけど、そうやってきて6年、手応えなんて何一つない。自分のコーヒーを美味しいと思えたことは一度もない。それは最上級に美味しい、感動するカップって意味じゃない。安心して飲めるコーヒーが焼けない。いつも嫌なものが入ってる。えぐみ、雑味、渋み、鋭い酸味…。

どんな淹れ方しても、飲んだ感想は「ん~…」ってなる。
嫌なものがあると身体が警戒する。ぎゅってなる。
感動なんかしなくていいから、安心できる味にしたい。

それを探してる。そんなコーヒーになるようなプロファイルを探してる。
だから、あれこれ試すしかないと思う。試すしかないんだって、そう思ってやってきた。


のだけど、最近ちょっと思うことがある。まずやらなければならないのは、プロファイルを探すことなんかじゃなくて、一つのプロファイルの再現性を高めることなんじゃないだろうか、と。

焙煎士というのは焙煎機の操作者なわけで、操作のプロであるならば、温度曲線の再現なんていつだってお手の物でしょう。それは所有している焙煎機の特徴を理解しているからであり、温度曲線の再現性は焙煎機の操作技術の習熟度(焙煎士の技術)を表していると言えなくもない。


そもそもなんで、プロファイル探しより再現性を高めることが先決だと思ったのか。
それは、プロファイルと味わいに因果関係を感じなかったから。

数値上は同じなのに味わいが違うことは、当たり前のように経験してきた。
当たり前すぎてそういうもんだと思ってたけど、本当にそうだろうか、それって本当に起こるんだろうか。ただ単に、辻褄を合わせただけの数値を同じプロファイルだと思い込んでいただけなんじゃないだろうか、自分よ。

例えば、投入温度は180℃でした、と言ったとき、
    その180℃は上昇途中の?それとも下降途中の?
    もしくは下げ(上げ)止まりしたときの?
    ダンパは開いてる状態?閉じてる状態?
    すでに点火済み?まだ?
    インターバル中はどのようにしていた?

これだけでも状況が全然違うにも関わらず、プロファイル的にはどれも180℃投入になる。こうやって辻褄を合わせただけのプロファイルで、味が同じにはならないんだなぁって言ってたけど、そうじゃなくない?って気がした。

ただ見た目の数値を合わせたってだけで、焙煎機の状況が同じになったわけじゃない。
そこを同じになるように調整してから投入しないと同じプロファイルとはいえない。
にも関わらず味が違うと騒いでたのかと思うと、ため息が出る…。


数値を合わせるだけなら簡単だけど、本当に焙煎機の状態を合わせるのは難しい。
だって、表示されてる温度は当てにならないんだから。

暖機し終わったこいつが、こないだと同じ状況だなんて、そんなことどうしてわかる??

だから「温度曲線を再現する練習」が必要なんだって思った。そういう技術がまず必要なんだって。バッチをまたいでも、そして日をまたいでも同じ曲線を描くことができるようになったら、焙煎機の状況をいつでも同じにできると考えてもいいかもしれない。

それができて初めてプロファイルと味わいがリンクする。それが当然なんだけど。プロファイルと味わいがリンクしてないってのは、まったく別のプロファイルを見ながらカッピングしているのと同じで、それでは今後の見立てが意味をなさない。これが無意味だってことはすぐにわかるのに、同じことをしていたとは思ってもみなかった。


焙煎機について習熟するという意味で「温度曲線を再現すること」は一つの目安でしかない。”実際に”温度曲線を完璧に再現しても、同じ味わいにはならないと思う。それは現実的に焙煎機をまったく同じ状況にすることが難しいということで、どうしても誤差は生まれてしまうからだ。曲線を再現できても味わいが同じにはならないということは結局大前提になるのだろうけど、それを誤差に収められるかどうかが焙煎士の腕なんだと思う。

そもそも二つのプロファイルに対して、それぞれの操作の違いによる味覚の違いをカッピングで見出そうとしているにも関わらず、前提となる焙煎機の状況がそれぞれ異なっていたら、重さと長さを比較するようなもので意味をなさない。その前提となる状況の差を限りなく小さくしたうえで、初めて操作による違いを比較できる。だからプロファイル探しよりも再現性を。

まずは、バッチごとの差をなくすために、インターバルの取り方を調整して、
次いで、焙煎日ごとの差をなくすために、暖機の仕方を調整する。

これによって少しでも進展してくれると嬉しい。