「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

五感を磨くには

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その始まりはカッピングだったと思う。何かを理解するために観察と仮説と検証の繰り返しは必要だけど、出発点の観察がそもそもお粗末では、立てた仮説は的外れになり検証が成り立つはずもない。観察の重要性を理解しているものの、それが定量的に表現できない五感情報ともなるとなかなか上手く仮説検証が回らず、迷子になる。

五感の信ぴょう性…嗅覚・味覚の信ぴょう性を上げるためには、何をどうしたらいいのだろうか。より沢山のコーヒーに触れることが必要だとよく聞くが、それだけで上達できるとは思えなかった。だってカッピングした数なら負けない自信があるもん。だから上達するには、数だけでなく質の問題もあるのだと思ってた。


今まで触れたことのない絵を描く(模写)という経験を経て、自分でも驚くほど上手に(そっくりに)描けたことで、「見る」ということの概念が変わった。大人になればなるほど、「ただ見る」ということができなくなるのだなぁと。文字を目にすれば「ただ見る」ことができず「読んで」しまう。絵や写真を目にしても、そこに何が映っているのかを「観よう」してしまう。自分の中にある似たものを探し出そうとする。一度それだと「認識」した途端、それ以上細かい情報を拾おうとはしなくなる。だってもうわかってるんだから。一度当てはめてしまえば、もうそれ以外に見えなくなる。目に映っているモノが頭の中のソレに置き換わってしまう。見ているはずなのに、もう目の前のモノは頭に入ってこない。目を離してしまえば、もう細かいことは何も覚えてはいない。メガネをつけていたことは覚えているけど、どんなメガネだったかは思い出せない。

これは人の話を聞いているときにも起こる。一字一句どんな文章でしゃべっていたかは覚えていないけど、こんな意味合いのことを言っていたというのは思い出せる。相手の言葉を一字一句聞いているというより、自分の辞書の言葉に置き換えて、何を言っているかを理解している感じ。

 

こういうことって、嗅覚や味覚にも起こってるんだろうか。目に映るモノが何であるかを理解しようとするとき、果たして意識は目の前のモノに向いているのだろうか。頭の中の記憶に向いてしまっているんじゃないだろうか。人の話を聞いているとき、果たして意識は相手の言葉に向いているのだろうか。頭の中にある自分の体験に向いてしまっているのではないだろうか。カッピングしているとき、果たして意識を珈琲そのものに向けることができているだろうか。今感じたそれはどんなフルーツに似ているだろうかなんて、記憶を巡らせていないだろうか。

ある人が言っていた。無理やり言語化しなくてもパッと出てくるもんだと。ボクはよく幽霊の話を出すのだけど、自分が見えるものしか見えないし、理解できるものしか理解できない。自分を超えるものは見えないし理解できないし、存在自体感じることができない。幽霊が見える人にとってはそれはそこら中に見えるのだろうけど、見えない人にとっては何をどう頑張っても見ることはできない。感じれない人間が頑張って感じようとしても感じることはできないのだから、自分が感じれるものを感じていたらいいんだと思うんだ。パッと出てこない時点で、今自分が感じたこれは何だろうかって問答自体、問題になる。なんてったってその瞬間、カップから目を離しているんだから。

単調なものであるならまだしも、複雑であればあるほど一見してわかるはずもなく、そういうものほど考えようとする思い出そうとする探ろうとするよりも、何度も何度も繰り返して観察する必要があるんじゃないだろうか。

 

どんなにひたすらカッピングしていても、必死に頭の中を検索していたのでは、カッピングしていないのと同じじゃないだろうか。チラ見した程度の情報で頭の中を検索したって何も出て来やしないだろうし、何かヒットしたとしてもそれは本当に目の前のモノと同じと言えるのか。「分かった」ことに浮かれて、見ているモノがヒットしたソレに置き換わってしまっていないだろうか。

残念なことに、必死になればなるほど頑張ろうとすればするほど焦れば焦るほど、目の前のカップから頭の中へ意識が奪われてしまう。必死になってひねり出したソレにあまり手ごたえを感じれずにモヤモヤして、負のスパイラルに突入する。一歩引いて距離を置いてフラットにクールに眺めるくらいに気持ちを楽にして、やらないといけないんだなーと思ったりする。

 

カップに向けていた意識が「知らぬ間に」頭の中へ向いてしまっていたのは、意識は猿のように飛び回るからなのだそうだ。そういえばそんなことをヴィパッサナーで聞いたっけ。ヨガの教室でも言ってたか。自分の意思とは無関係に勝手気ままに飛び回る意識をこれと決めた何かに向け続ける練習として瞑想があるなら、文字を見るのも話を聞くのも風味を感じるのも上達するんではないだろうか。

タンスの奥で眠っていた「瞑想する習慣」を引っ張り出してきて早1ヵ月。毎日2時間くらい瞑想してるけど、一番大きな実感は、頭の中が静かになったこと。透明感というかクリアになった感じで、そのおかげか、まるでクリーンカップのように、香りを明確に感じられるようにもなった。香りを感じても頭に意識が奪われず、またパニックを起こしたように意識がどっかへ行ってしまうこともなく、落ち着いて目の前の香りを眺めてられるようになったのは、ここから先の「香りの認識」の前段階として嬉しい成果だと思う。