「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

焙煎はアート。超個人的営み。

焙煎を始めたころから、頻繁にネットを検索していましたし、書籍もよく読んでいました。海外のyoutube動画で勉強したりしてました。

何事もそうだと思うのですが、そもそも事前知識(言葉の意味や用法など)が少ないほど理解は浅くなりがちです。経験的にも、理解できたかは気にせず、とりあえず何度も通読することで、只管音読のように、今そこで説明されている内容がどういったものなのか、文脈をしっかり把握できるようになり、次の「理解」をする段階に進めるようになります。

当時、何度も繰り返し読んでいたのは、さかもとコーヒーさんやサードウェーブコーヒーさんのブログ、オオヤミノルさんの美味しいコーヒーって何だ?という本でした。何も分からなかったからこそ、舐めるように何度も見返して、自分の焙煎とも比べて必死に理解しようとしていた良き思い出があります。多様性、他面性があって、焙煎という行為に対して、いろんな人がいろんなことを言うんだなぁと驚いていました。豆を炒るというのは、何を使おうが同じことなのにと。まさに「群盲象を評す」だと思っていました。

でも、焙煎の場合、同じ象じゃないから、より厄介なんですよね。それぞれが違う象を触りながら、あーでもないこーでもないって言っているのだから、かみ合うわけがないのですよね。真理を求める理系の性ですね。これに気づくまで数年かかりました。仕入れたやり方を試してみて、同じようにならないなぁなんてことを何百回繰り返したか…。そりゃそうですよ、目指しているゴールの位置が同じじゃないんですから。

どれだけ自分に素直になれるか。一般的に言われていることに寄せて理解しようとせず、自分が受け取った情報、経験にどれだけ素直に向き合えるかが、大事なのだなぁと改めて思いました。