「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

頭の中の声より目の前の事実

インナーゲームでは「セルフ1を静かにさせて、目の前で起きていることに集中し、セルフ2に委ねよ」と言う。脳の右側で描けという本では「口やかましい左脳には、複雑な図柄を見せてあげれば、解釈できずに退屈して、すぐに思考停止する。そしたら右脳の出番だ」と言う。森田療法は「神経質や強迫観念の症状が出ているときは、それに図らわず、ありのままを受け入れて、今やるべきことをやろう」と言う。

三者三様の表現だけど、その根底にある原理は一緒のように思う。これらのうち最初にであったのは森田療法だった。図らうことが苦しみを助長させるという考え方は、目から鱗が落ちたようで、書籍を漁ったのを覚えている。その反面、いくつかの疑問もあった。図らわずとは、我慢や抑圧とは違うのだろうか、また受け入れるとは具体的に何をどうしたら受け入れられたことになるのだろうか。

一方で、インナーゲームや脳の右側で描けという本では、頭の中で騒いでいる”声”から離れ、現実に意識を向けましょうと教える。現実とは、目のまえで起きていることや今自分がやっていることのことだ。

これを踏まえると、図らうとは頭の中の声に従うことで、図らわずとはそれに従うべからずということなので、我慢とは異なる。それに、受け入れるとは、念仏のように受け入れよう受け入れようと唱えることでもなく、言葉的に理解するようなものではない。目の前で起こっていることや自分が今まさにやっていること、言葉ではなく目の前で起きている事実に目を向けることが、受け入れている状態なんだと言える。


今夏、ボクに大きな変化があった。それは、ちゃんと眠れるようになったこと。
実に3年ぶりでなんです。夏でも湯船につかるので、お風呂から出ると汗だくになるのです。そこに扇風機をかけたり窓を開けたりして風に当たると、あっという間にキンキンに身体の表面が冷えてしまって、眠れなくなってしまうのだ。掛け布団をかけると暑くて汗かくし、剥いだら剥いだで寒くなってしまって眠れない…の繰り返しでした。それが今夏は、寒いではなく「涼しい」と感じられるようになったのです。

ちょっと半信半疑だったんですけど、どうやら上の考え方のおかげのようなんです。つい先日も梅雨に戻ったかのように、「気温35℃で湿度60%で雨」という身体にとっては非常に厳しい、放熱できない状況だったんですけど、しばらくは暑い暑い念仏のように口から駄々洩れだったんですけど、上の教えを思い出して、目の前の作業に集中していたら…あら不思議…少しだけ開けてた窓から入ってきた風に「涼し」って感じたんです。まだ正午を回ったところで、気温が下がる時間じゃないのに。ほんとにびっくりしました。これが気持ちの問題というやつなのかと。心頭滅却ってやつなのかと。

暑い日に暑いのは当たり前なのに、それに向かって暑い暑い叫んでいても、全く持って意味がない。まぁ意味がないんだけど、そんな奴はそのままにして放っておいて、自分はやることやりましょう…ってな感じでした。


そう考えたら、いろんなことが当てはまるなぁと思いました。
受験生にとって合格できるか不安で勉強が手につかないなんてことは、多々あると思う。明日のプレゼン上手くいくだろうかとか、自分が作ったものに自信が持てなくて笑われてしまうんじゃないか、失望されてしまうんじゃないか…。

振り返ってみれば、焙煎中、カッピング中のボクは、まさに頭の中の声に従っていたんだなぁと思う。「今のこのタイミングでガスをさげるべきだったんじゃないか。ちょっと時間かかりすぎなんじゃないか。もっとこうしたらいいんじゃないか。」そういうなんの根拠もない、ただの思い付きとしか言えないような声に何度も従って、何度も裏切られてきた。カッピングなんてもっとひどい。「こうじゃないんだ。こういう味ではないんだ。もっとこうでなきゃいけないんだ。これではダメなんだ。」ボクが見ていたのはただ一つ「これではないんだ」だけ。そのカップがどんなカップなのか、どんなフレーバーを持っていてどんな味わいのバランスをしていて、アタックからアフターにかけてどのように変化をするのか。そこに良し悪しはなく、ただひとつの味わいとしてあるだけ。ボクは「これは違う」というジャッジを下して終わりだった。

頭の中から聞こえてくる「もっとこうした方がいいんじゃないか」という声ではなく、目の前のカップをもっとよく見ようと思う。みてないつもりはなかったが、確かに頭の声を優先していた自覚はあった。コーヒーをすすった後、声がするのを待っている感じは、確かにあった。もっと肩の力を抜いて、言語化よりもただカップを取るということを優先してやってみようと思う。中平さんが言っていた「特徴があれば頑張らなくてもパッと出てきますから」というくらいの姿勢で、カップに向き合ってた方がいいのかもしれない、今のボクよりも断然に。

ただ心配なのは、言語化せずにどうカップの様相を把握するのか、まったく見当がつかないことだ。言葉を介さない情報の持ち方、記憶の仕方を全然知らないから、まったく見えてこないのが不安。ただの妄想で終わる可能性もあるからw。

「解釈を挟まずに物を観る」という行為は、純粋な観察…それこそ初めて口にする食べものと同じような観察だと思う。コーヒーのカッピングもブラインドでやるとやっぱり得られる情報が多い感じがするのを踏まえると、解釈を挟まない観察は、その対象をよりよく観ることになると思われるから、しばらくはやってみようと思う。



※そうそう。そういう意味で「余白の音に耳を澄ませて」ってダメじゃんって思った。ボクがどれだけ頭の中の声、セルフ1の声に従って生きていたのかがよくわかるw。