「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

弓と禅、そしてインナーゲーム

ボクが興味を持っている人たちの多くが「上手くいかないのは自分で自分を邪魔しているからだ。からだにすべてを任せるべきだ」という考え方をしている。野口体操もそうだし、森田療法もそうだし、アレクサンダーテクニークもそうだし、沢庵和尚もそうだ。からだ本来の力に任せるべきだ、図らわずあるがままにするべきだ、自分が邪魔をしなかったときにからだは最高のパフォーマンスをする…などなど。

言わんとしていることは理解できる。これまでの人生で、こうすれば上手くいくんだと発見した瞬間に、そしてそれを再現しようとした瞬間に、ここまでは上手くできていると認識した瞬間に…それまで順調に来ていたものが崩れ失敗する経験を何度もしてきたからだ。呼吸を観察しているとき、カッピングをしているとき、けん玉をしてるとき、サッカーをしてるとき、ラテアートをしてるとき、操体法をしているとき、站椿功をしているとき。

だけど、一体全体何がどういうことなのかは全く理解できなかった。なぜなら、歩くのも走るのも弓を引くのもテニスをするのも…すべて、自らの意思で行動している。にも関わらず、その主導権を手放しからだに「任せる」?それは一体どういうことなんだ?からだに任せたところで、一向に歩き出しもしない。それどころか腕の一本、指の一本だって動かすことができないじゃないか。意思がなければ動きもしない。意思をもって行動するが、しかしからだにすべてを委ねる?一体それはどういう状態なのか。

そんなとき、新・インナーゲームを読み始めた。インナーゲームは、弓と禅の著者のオイゲン・ヘリゲルをWikipediaで調べたときに知った。この本では、私(セルフ1)と自分自身(セルフ2)の2つの自分がいると説明している。

セルフ1は、言葉や意思、思考、感覚を司っている、おそらく一番身近な私のことです。五感を通して現実世界を知覚していると思われます。おそらく明確な理想のイメージと五感を通して把握した現実世界の差分が自動的にセルフ2へ連携され、セルフ2によって自然発生的により理想的な状態へ修正されるのだと思われます。大切なのは明確な理想形をイメージすることと現実世界をありのままに知覚する観察能力です。しかし、多くの場合、(特に今の社会では)事実をありのままに観ることができず、判断や評価を下し、解釈や自己否定をしています。昔何かで読みましたが、真実は人の数だけあるが事実は一つしかないと。まさにその通りだと思います。

そしてセルフ2は、筋肉だけでなくホルモンバランスや自律神経など、動物としての生命活動そのものを司っている自分自身です。簡単に言えばからだのことだと思います。からだはそれ自身では意思を持たないから、セルフ1の(言葉ではなく)感覚的なイメージに従います。明確なイメージを示されないとセルフ2は解釈できず動きがぎこちなくなるのだと思われます。

つまり、セルフ1が仕組みや本質、その方法論などを分析し理解しようと試みた途端、セルフ1が五感からの情報を分解、分類、解釈し始め、それまでスムーズに行われていたセルフ2への情報提供(イメージによる共有)が立たれ混乱をきたし、失敗に至る。

からだに任せるとは、セルフ1は明確に意思(理想的なテニスのショットのイメージ)を持ち、そしてからだの動きをただ観察するに留めなさいということ。明確な意思が想起されれば、セルフ2はそれを実現しようと反応し動き出します。一方で、セルフ1がそれを評価せずこうすべきだと口出しせずにありのままに観察すれば、その現状は即座にセルフ2へ連携され、セルフ2は勝手に修正を始めます。

からだを動かすというのは、本来こういうものなのかもしれませんね。どらえもんの道具(サイコントローラー)のようですね。セルフ1がイメージし、それをセルフ2が実現する。セルフ1は信頼してそれを見守っていればいいだけ。

そもそもセルフ1は口しか動かせない。それゆえに、しゃしゃってしまう。セルフ1が口を閉ざし、期待せず評価せず解釈せずに、黙ってただありのままを見つめている、まさにその姿を「無心」と呼ぶのかもしれません。