「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

背景ボード ― コンクリートエフェクトペイント ―

今回は、タカラ塗料さんのコンクリートエフェクトペイントを使って、コンクリート風の背景ボードを作ってみました。
takaratoryo.shop


コンクリートのような重ね塗りが必要な塗装は、「良い塩梅に」重ねていくことがとても重要です。塗りつぶさず、互いに活かしあう重ね方をしないといけませんが、ボクはそれが非常に苦手です。どうしても全体を均一に塗りつぶそうとしてしまうんです。だから、やる前から全体を塗りつぶしてしまうんじゃないかと心配していました。それを警戒しすぎてなのか、ちょっとラフなコンクリートって感じになりました。イメージしていたのは、タカラ塗料さんのサイトのようなコンクリートだったんですが、ちょっとやりすぎたようです。とはいえ、写真にしてみるとそれっぽくなっているので非常に大満足しています。

これまでのDIYに関してはYoutubeで色合いをしっかり観察していたのですが、今回のコンクリート風のペイントは手数が多くその手順ばかり気にしてて、肝心のコンクリートの色合いをしっかり見ていなかったので、塗っている最中にそれっぽく見えなくて不安でしかなかったです。再現しようとするものをちゃんと観察しておくことはとても大切なんだって思いました。

前回同様、気温が低く塗料が伸びずに、ボケ感を出すことが難しかったです。ビニール袋をくしゃくしゃにしてトントンしながら塗料を乗せていくのですが、塗料と水が分離している感じで斑点模様、ドット柄のようになってしまいました。色と色の境界がはっきりしてコントラストが強く、ドライのブラシでかさつかせながら塗った感じになってしまいました。冬場の塗装は注意が必要ですね。


さて今回使用した道具たちです。

塗料の容器をうっかり捨ててしまったので、詳細はサイトの方へ。



今回もMDF材を使用しました。前日のうちにプライマーを塗っておきます。面が広いのでローラーを使用しました。楽ちんです。



コンクリートエフェクトペイントのベースの塗料をローラーでササっと塗りました。写真は2度塗り後の状態です。ここらへんは難なくクリア。



そこへダークグレーの塗料を水でシャバシャバに薄めて、くしゃくしゃにしたビニール袋でトントンしていきます。トントンしているときは色味が薄く感じますが、乾いていくにつれて濃くなっていきます。ボケ感がだせずコントラストが強くて、斑点のようです。ちょっと心配になっているときです。



ここにセメントサンドという塗料を同様にトントンしていったらこうなりました。サンドというだけあって砂っぽい色合いになりました。凹凸感を強く感じます。どこに塗ったらいいのかわからないし、どう塗っても塗りつぶしているようにしかできず、若干パニックでした。



そこへ最初のベース塗料を水で薄めて同様にトントンしてなじませます。そう。なじませなきゃいけないんですけど、上塗りしてしまっているんです。もうこれをどうしていいかわからず悲鳴を上げながらやっているところです。



んでしばらく眺めた末に、ダークグレー→サンド→ベースをもう一度重ねました。そうすることで、より奥行き感が出てくれたので、とりあえず完成としました。ただ、コンクリートというよりも画家のアトリエにある板って感じです。塗りたくった感をとても感じるので、この時点ではコンクリートとは思えませんでした。額装したらカッコいいかもですが。


全体を俯瞰するとこんな感じですね。


ま、例のごとく屋内で撮影したら、それっぽくなったので満足しています。他にも鉄風塗装に錆みたいなものでも同じような重ね塗りを見かけましたが、それっぽさを出すのは簡単ではないなと感じました。また同じ塗料でチャレンジしてみようと思います。今回は全体的にサンド感が強く出てしまって、イメージしていたのとは違う仕上がりになりました。もしかしたらグレーとダークグレーだけの方がイメージしていたコンクリートを作れそうなので、それにも挑戦してみたいです。

背景ボード ― 漆喰 ー

初めて作った背景ボードがなかなか好評だったので、調子に乗ってまた作ってみました。
今回は、漆喰の背景ボードです。

漆喰はDecor Interior Tokyoさんのヴェネチアンプラスターを使用しました。
material-interior.com

サムネイルはダークグレーの漆喰です。
それ以外にもホワイト、ブルーグレー、ブラックも作りました。
撮影するものや時間帯などによって、切り替えたらいいかなって思っています。

さて、今回は天気が良かったので前回同様に屋外で作業をしましたが、気温が低くて漆喰が伸びにくく、屋外だったからか乾燥しやすく平らにならすのがとても難しかったです。途中で室内に避難したらずいぶんやりやすくなったので、次回からは室内でやろうと思います。

そして一番厄介だったのが、中途半端に乾いた漆喰のかけらです。それが柔らかい漆喰に紛れ込むとなでたときにひっかき傷のような傷を作ってしまうからです。今回のように伸びが悪く時間がかかってしまうと混入しやすいですし、コテの端っこについて固まった漆喰は意識して落とすようにしないとすぐに紛れ込んでしまいますから、コテも常にキレイな状態にしておかないといけないなって思いました。

あと、作ってから結構日が経つんですけど、触ると色が移ってしまうんです。こういう仕様なのか、作業工程で何かミスったのかわかりませんが、布ものを置いたり触れさせるときは注意が必要です。どうにかなるもんなんかなー。


今回使った道具たちの紹介です。

今回使ったものたち。これ以外にも水洗い用の水とバケツに雑巾を使いました。サムネと同じ構図ですが、この写真だととても白っぽく見えますね。日向よりも日陰で使おうと思いました。

上の写真の通りなんですが、水を張ったバケツと雑巾や新聞紙など、清潔に保つためのものを用意しておくと作業しやすいなって思いました。漆喰はスプーンですくって、コテに直接のせて塗っていました。あと、作業途中で使い終わったローラーや刷毛を逐一洗えない場合は、水につけておけばあとで洗うとき楽ちんです。そのためにも水バケツが必要ですわ。

アク止剤(プライマー)を塗って一日置いたもの

反りや木目、ふしがなくキレイに仕上がるかなと思ったので、今回はMDF材を使用しました。アク止めが必要なのかわからんでしたが、一応塗っておきました。さて漆喰の下塗りは薄くのばして塗るのですが、感覚的にはパテ塗りと似てるかもって思いました。そんな要領でやりました。

下塗りして乾燥させたもの

結構なムラがありますが下塗りなのでいいかなと。大体1時間くらい置いてます(が、左下の隅はまだ乾いてないですね)。これから上塗りをしますが、引きずり伸ばすというよりもむにゅっと感を頼りに押し広げる感じで。

上塗りして乾燥させたもの

漆喰を二度塗りまで完了した状態です。どうです。ムラがすごいでしょう。左官屋さんってすごいです。結構、色の違いが目立ちますが、なんの塩梅でこうなるのかちょっとよくわかりませんでした。

コテで磨いたあと

色が濃く黒っぽくなっている個所が光沢が出ている部分です。右端の白飛びしてしまっている部分も同様です。結構反射するので背景ボードとして使う場合は磨き過ぎにも注意かもしれません。これは完全に乾燥してからコテで磨いたので、エッジになっている部分しか光沢が出ませんでした。半乾きの状態で磨くことを推奨していた理由が分かりました。あと明るい場所や屋外では、結構白っぽく見えるのが意外でした。サムネイルのように室内や影の中では暗めになるんですけど。


初めてのコテ塗りで平らにならせず四苦八苦しましたが、写真映りもいいのでとても満足しています。前回作った焼き板との相性も抜群なので、より一層撮影に力が入ります(本業はコーヒー豆屋さんですが)。今回も楽しくできたので、また何か作れるものがないか探してみようと思います。

自分が焼いた豆や人様が焼いた豆に対する心境の変化

焼き方によって、淹れ方によって、何を良しとするか(評価基準)によって、同じ生豆を使っていても良くも悪くもなる。


買ってきたコーヒー豆を自分のやり方で淹れてみたけど美味しくない場合、その豆と淹れ方の相性が悪いか、それとも相性は良いけど好みの味ではないのかのどちらかだ。いずれにせよ、そのコーヒー豆が不味いのではなく、自分に合わないだけ。

同様に、仕入れてきた生豆を自分のやり方で焼いてみたけど良いと感じない場合、その生豆と焼き方の相性が悪いか、相性は良いけど好みの味じゃないかのどちらかである。はずなのに、この生豆はスペシャルティではないという評価をしがち?

最近、スペシャルティかどうかということに興味がなくなった。そこにこだわるのは焙煎の熟度が上がってからにしようと数年前に思ったからだ。ただ「スペシャルティ」という表現をしなくなっただけで、腹の中では良し悪しを見ていたのかもしれない。


富士登山を目指している人とフルマラソン完走を目指している人がペース配分について議論しても意味がないのは目的が違うからだ。その馬鹿さ加減をこの例なら理解できるのに、自分が焼いているコーヒー豆と人様が焼いているコーヒー豆を同じ方法で評価していることに、違和感を感じてこなかったのはなぜなんだろうか。向いている方向、進んでいる方向、目標としているものが違うじゃないか。焼き方が違うならそれに合わせて淹れ方も変えるべきじゃないのか。

きっかけは不定期で頂いていたサブスク豆だ。それまでは、本当に傲慢にも自分のレシピで淹れてあーだこーだ言っていたのだ。だけど、それは一体何を生むのだろうかと思ったのだ。自分とは異なる生豆を使っていて、自分とは異なる目標を持っていて、自分とは異なるアプローチをしているのに、なぜ評価だけは自分と同じ方法なのかと。その評価結果は誰の役にも立たないではないかと。


大事なのは「楽しめること」「美味しくいただけること」なんじゃないのかなと。浅煎りと深煎りを同じレシピでカッピングしたら圧倒的に浅煎りの方が美味しい。深煎りはカッピングと相性が良くないから、ざらついたり渋みを感じやすいからだ。逆に深煎りに合わせた淹れ方は、浅煎りでは酸味が強すぎて飲めたもんじゃないんだ。でもどちらの豆も相性の良い淹れ方をすれば、どちらもとても美味しくいただけるんだ。美味しくいただけるなら、もうそれだけでコーヒー豆としてOKなんじゃないのか。(コーヒーが自己表現と言われるのがわかる。ひとつの評価基準でぶった切っても誰得にもならない。互いを理解する尊重するということと通ずるものがある。)

背景ボード ― ペンキのひび割れと焼き板 ―


これまでも興味はあったんですけど、手を出してこなかった分野です。
もともと工業系ですし、モノを作ることは好きだったはずなんですけどね。

その理由を考えてみると、
 工具などを揃える必要があって、今後も継続して使うか疑問なので動き出せない。
 後片付けが面倒。
 そして何よりも思った通りできなかったときの「あーぁ…」感が嫌。

こういうタイプは買った方がいいんでしょうね。


でも、「自分のお店はどうするか」ということ考えるうちに、DIYという選択肢に至りました。そして世の中のDIYerの作成過程を見るうちに、やってみてもいいかもしれないという気持ちになりました。

ただこう思えたのは、この1年間に起きた考え方の変化のおかげが一番大きいと感じてます。『自らがコントロール「してやった」』のではなく『自然と「そうなった」』のだと考えるだけで、何が何でもどうにかしてやろう何とかしてやろうとガムシャラにするのではなく、自然の成り行きに任せる感じで、熱中しすぎず、クールに俯瞰できたなって思います。


そいで、今回作ったのは、普段の撮影に使う「背景ボード」です。

(左から)The Rose Garden Color'sのソレイユ、アルバートル。(一番右)焼き板

このブログのサムネイルは真ん中の板を使っていますが、
ひび割れが良い味を出していると思います。完全に自己満足です。
焼き板、かっちょよくないですか?いやー良い。まったく素敵です、ええ。


(所感)
背景ボードとして使用中に、ペンキが剥がれ落ちるかと思ってたけど、そんなこともなく安心。ペンキを塗るのは初めてなので、刷毛の跡がたくさんあるんですけど、実際使うときは引きで撮るのであまり気にしなくてもよさそうです。焼き板の方もワイヤーブラシでこするとき細かな傷がつくけど、これもあまり気にしなくてよさげ。

(ポイント)
・実際に写真撮影用に使ってみたら結構見切れてしまうから、60cm以上の幅が欲しい。
・ひび割れを大きくしたい場合は、のりを厚めに塗る(ソレイユ)。
 気合を入れ過ぎてソレイユのときにのりをたっぷし塗りすぎました。
・逆に小さく細かくしたい場合は、薄めに塗る(アルバートル)。
 それを受けてアルバートルの方は、控えめに薄めに塗っていきました。
・焼き板の方はあぶりすぎるとちょっと暗すぎると思ったので、
 薄めにあぶって好みの仕上がりになりました。

(使ったものたち)
1×6材と道具たち。

ワイヤーブラシも使います…


(手順)
・ソレイユとアルバート
 ①オイルステインで着色後、しっかり乾燥。
  ひび割れたときの下地の色なので、ちょっと焼けた感じを出したくて、
  ウォルナットを使いました。
 ②スティックのりを塗布。ペタ付くくらいまで乾燥。
 ③ペンキを塗布。
  ペタ付くので擦っちゃうと刷毛跡が残りやすいので、気持ち乗せる感じで。完了。

・焼き板
 ①バーナーで好みの色合いまで炙る。
 ②ワイヤーブラシで好みの色合いまで擦る。
  結構がりがりやって、あえて傷をつけてみた。
  もけもけした感じとか、傷んだ感じがヴィンテージっぽくてよいかと思って。
 ③濡れ布巾で、汚れがつかなくなるまで水拭き。完了。

今回作成過程の写真を取り忘れたので、文字だけでわかりにくいから、次回はちゃんと撮って残したい。それに次ぎ作るなら、もうちょっと大きめのサイズにする。少なくとも60cm以上に。1×6材が接する部分は見えないだろうと思って、ペンキもステインも塗らなかったんだけど、板が変形してきて見えてきてしまったので、表面だけでなく横面も塗った方がよいかも。

「自(おの)ずから然(しか)り」(自然)とは

 「人間にとっての自然」という言葉を使うとき、いったい何を前提としているのだろうか。念頭にあるのは、動物のような自然なのだろうか。「人間らしさ」はその自然には含まれないのだろうか。

 以前、すでに「食」は生きるためから楽しむためのものに変わったんだと感じた。生きるために食べるというよりも楽しむための食べるという意味合いの方が強いんだな、と。

 それは、脱水状態のときに飲むOS1をマズイとは思わなかったし、疲れていてしんどいときに食べたチョコレートに身体が震えて喜ぶような、染み渡っていくような感覚を覚えたことがあってから、身体が必要としているものを摂取したら、身体はちゃんと喜ぶんだなぁって感心し、同時に普段の食事でそんなことを感じたことがないなと思ったことがきっかけだ。

 毎日お料理を作るとき、仕上げの塩味を調整するとき、そのバランスの基準は「お料理として過不足がないか」だ。自分の身体にとって「過不足ないか」などとはこれっぽっちも思わずに。そんな視点は持ってなかった。お料理の学校に通っていたから余計かもしれないけど。だから、料理としての「美味しさ」と身体が喜ぶ「美味しさ」は一致しないんだと思いはじめた。

 「あ、これ美味しい!」って思ったとき、それは動物的な身体的な肉体的な喜び、というよりも、感情的な心理的な精神的な喜びなんじゃないかと思う。つまり、そこを追求しても肉体的な健康には至らないのだろうなと思う(まぁ真っ先に反論されたけど…)。


 ここ最近、音楽を聴いたときに心を根こそぎ持ってかれる、揺さぶられる、感動して涙が出ることが多くなった。歳とったのかな。

 あれは一体なんだろう、といつも思う。こちらの都合に関係なく有無を言わさず問答無用に揺さぶってきやがるあれは、一体なんなんだろうか、と。映像はなく音だけなのに、悲しくなり寂しくなり冷たく重くなり一転、軽く明るく嬉しく楽しくなり感動してしまうのはなんでなんだろう。

 音が持つ周波数が脳波に影響を与えるみたいなことを何かで読んだことあるけど、そういうことなのかな。悲しそうな音、現実世界では音なんて出てないのにね。そういえば、甥っ子がまだとても小さかったころ、一緒に観ていた映画のあらすじなんてわからないだろうに「悲しいよぉ」って大泣きしてたのを思い出す。


 これもまた美味しいと同じように、生きるために必要なものをはるかに超えて、心の楽しみのためにある感受性な気がするのだ。お料理の美味しさも音楽に対する感受性もどちらも動物的な自然からはかけ離れているけどもさ、至極「人間らしい」もののように思う。

 肉体的な健康には身体的な自然を求めことが必要だけど、一方であれだけ心を揺さぶられるのも心豊かに生きていくために必要なことなんかな。野口体操や整体などいろいろな分野で自然であることを良しとするが、その自然とは一体なんなのかはずっと探し続けていかなきゃいけない気がする。

突然だけど、熱風や半熱風と直火って、全然違う気がする

熱の伝わり方には、熱伝達、熱伝導、熱放射がある。それに絡めて焙煎機には、熱風式、半熱風式、直火式の3種類あると言われる。

熱風式は熱風の熱伝達を利用し、半熱風式は釜の熱伝導を利用し、直火式はバーナーからの熱放射を利用して焙煎が行われていると説明される。

家庭用の焙煎器の中には、ガラス製の手回し焙煎器もあり、そのガラスは赤外線などの電磁波を通すわけだけど。

なら、それを「直火式」と呼んでいいのか?


直感では、火あぶりにされていないから違うんじゃねと思う。やっぱりパンチングされた釜でなきゃ直火とは呼ばないんじゃないか、と。飲んだことないけど、味わいも直火っぽくないんじゃないだろうか。どちらかというと半熱風に近いのでは。


そうなると何をもって「直火式」と呼ぶのか。

「火あぶりにされている」ことがポイントではなかろうか。焼き鳥のように。つまり「燃える」という現象の有無なのかなと。


最近になって、炭を作る過程の「乾留」という現象を調べ直した。燃焼すると灰ができるけど、乾留すると炭ができる。酸素を絶った状態で固体(割りばし)を熱すると気体(木ガス)、液体(木酢液)、固体(炭)に分解されるのだそうだ(Youtubeで実験風景が見れるよ)。んで、木ガスは炎を上げて燃焼する可燃性ガスで、炭は炎を上げずに燃焼する可燃性の物質なのだ。なら、割りばしを燃やしたとき、木ガスの燃焼と炭の燃焼が同時に起きているのかなと思ったりする。


動画で実験器具を見たときに、焙煎機とそっくりだなーと思った。違いは割りばしの入った試験管が回っているかどうかだけ。


そうか。焙煎は乾留なんだ。



でも、直火の場合は火あぶりだから、やっぱりなんかちょっと違うのかなって思う。

試験管の中で起こる反応は乾留。じゃその試験管をどかして、直に火に晒すことで起こる反応って、やっぱり燃焼なんじゃないかって思う。

まぁ実際に燃焼はしてないんだけど…、でもそう考えると、燃焼と乾留の初期段階って違うことが起こってるんじゃないかなって思ったりする。それが、熱風や半熱風と直火の違いになるんじゃないかって思う。


熱風や半熱風のコーヒーと直火のコーヒーが同じ数直線に並んでいないように感じるのは、桁違いに違うと感じるのは、そういうことなのかしらと思う。

瞑想の側面…

瞑想していると、もしかするとちょっと違ったりするのかもしれないなんて思うことがある。確かに、何かに意識を向け続けていると、不意に意識が外れることがある。下手すると戻ってこないことも。それも頻繁に。それを何かに留めておくこと、おけることは、注意散漫になりがちで集中力のないボクにとって重要である。と思うし、有益だと思う。


がしかし…が、しかしである。如何せん、この何かに意識をとどめておこうとしているとき、とても頑張っている感じがあるのだ。意識をそらしてしまわないように。この状態を何としても維持しようとしている感満載なのである。

それが正しいのなら何も言わないが、世の中には「居着き」という言葉がある。瞬時に動けるように身構えるのだけど、その身構えることが力みや強張りを生み、結果動けなくなってしまう、居着いてしまうとのことだが、なんだかそれと同じ匂いがするのだ。簡単に言えば、手段の目的化なのかもしれないなと思うのだけど、それと似ていないだろうか。集中することに集中しているみたいな感じだろうか。


夜、寝るまえに、座布団の上に胡坐をかいて、1時間のタイマーをかけて瞑想に入るのだけど、大抵おしゃべりが止まらない、そして呼吸が苦しくなり、足がしびれたり、腰が痛くなったりしてくる。もうだいぶ経っただろうと時計を見ると30分ほど。ここくらいからやっと静かになりだすのだけど、こういう症状が出てきたときに、これまでは逐一対応していたわけです。おしゃべりを止めようとし、呼吸が楽になるように、足が楽になるように、腰が楽になるように姿勢を整えて、微調整して、もぞもぞと、只管それを繰り返すのです。

そうすると、まるで綱渡りをしているかのように身体が固くなってしまうんです。そして、結局維持できずに力尽きてしまうのです。こういうことを繰り返すうちに、ふと「正しくあろう」という思いを手放すために、瞑想をするのかもしれないなと思ったんです。ちゃんとしよう、静かにしよう、長く座ってられるように整えよう…正しくあろうとすればするほど、形を整えることに一生懸命になって、「瞑想」という形を作るのに一生懸命になって。そうやって時間が過ぎるのをただ待つようになって。

この正しくありたいという思いは、やった結果(どうであったか)に対する執着からか、上手くいってほしいという願望からか、できていないという状態に耐えられないからか。たかだか瞑想で?できなくても何の問題もないのに?我ながら笑える…。が、真剣である。「やった結果がどうなったか」に異常なほど関心があり、そして無意識に「できている状態」を切望している感がある。それがどんなに小さいことであっても。それが何に対しても「正しくあろうとする → 全力を出す → 手を抜けない → 完璧主義者と呼ばれる」に出ているのだと思う。


足がしびれた、腰が痛い、おしゃべりが止まらない、呼吸がしにくい、イライラする、やってらんない…こういうものたちをどうにかしようとすることを諦めて、手放し、放棄する練習としての瞑想、という側面もあるんじゃないだろうか。そんなふうにも思うのです。集中する練習としての瞑想、手放す練習としての瞑想、どちらが正しいのかわからないけどどちらも効果がありそう。



感銘を受けた方々の言。皆さん同じようなことを言ってらっしゃって泣ける。

「図らわず、やるべきことをやる」森田正馬
 正しくあろうとせず、ただただ瞑想してなさいとさ。

「頑張るというのは、でっち上げの能力を鍛えているにすぎない」野口三千三
 正しくあろうとすることは、形を整えることに過ぎないと。

「明日のことは配慮すべきである。細心の注意を払って計画し、準備すべきである。だが、心配するには及ばない。」デール・カーネギー
 心配しすぎなんだなボクは。今やれることをやるだけなんだなと。結果は心配すんなってさ。

「死を受け入れたと叫んだが、生きる努力をやめようとは思わなかった。ある種の心配をやめた。生への執着を捨てた。生を放棄した。」ティモシー・ガルウェイ
 正しくあろうとすることはいいことなのかもしれない。だけど、それがどんな結果になるのかを心配するのはやめましょうと。