「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

「自(おの)ずから然(しか)り」(自然)とは

 「人間にとっての自然」という言葉を使うとき、いったい何を前提としているのだろうか。念頭にあるのは、動物のような自然なのだろうか。「人間らしさ」はその自然には含まれないのだろうか。

 以前、すでに「食」は生きるためから楽しむためのものに変わったんだと感じた。生きるために食べるというよりも楽しむための食べるという意味合いの方が強いんだな、と。

 それは、脱水状態のときに飲むOS1をマズイとは思わなかったし、疲れていてしんどいときに食べたチョコレートに身体が震えて喜ぶような、染み渡っていくような感覚を覚えたことがあってから、身体が必要としているものを摂取したら、身体はちゃんと喜ぶんだなぁって感心し、同時に普段の食事でそんなことを感じたことがないなと思ったことがきっかけだ。

 毎日お料理を作るとき、仕上げの塩味を調整するとき、そのバランスの基準は「お料理として過不足がないか」だ。自分の身体にとって「過不足ないか」などとはこれっぽっちも思わずに。そんな視点は持ってなかった。お料理の学校に通っていたから余計かもしれないけど。だから、料理としての「美味しさ」と身体が喜ぶ「美味しさ」は一致しないんだと思いはじめた。

 「あ、これ美味しい!」って思ったとき、それは動物的な身体的な肉体的な喜び、というよりも、感情的な心理的な精神的な喜びなんじゃないかと思う。つまり、そこを追求しても肉体的な健康には至らないのだろうなと思う(まぁ真っ先に反論されたけど…)。


 ここ最近、音楽を聴いたときに心を根こそぎ持ってかれる、揺さぶられる、感動して涙が出ることが多くなった。歳とったのかな。

 あれは一体なんだろう、といつも思う。こちらの都合に関係なく有無を言わさず問答無用に揺さぶってきやがるあれは、一体なんなんだろうか、と。映像はなく音だけなのに、悲しくなり寂しくなり冷たく重くなり一転、軽く明るく嬉しく楽しくなり感動してしまうのはなんでなんだろう。

 音が持つ周波数が脳波に影響を与えるみたいなことを何かで読んだことあるけど、そういうことなのかな。悲しそうな音、現実世界では音なんて出てないのにね。そういえば、甥っ子がまだとても小さかったころ、一緒に観ていた映画のあらすじなんてわからないだろうに「悲しいよぉ」って大泣きしてたのを思い出す。


 これもまた美味しいと同じように、生きるために必要なものをはるかに超えて、心の楽しみのためにある感受性な気がするのだ。お料理の美味しさも音楽に対する感受性もどちらも動物的な自然からはかけ離れているけどもさ、至極「人間らしい」もののように思う。

 肉体的な健康には身体的な自然を求めことが必要だけど、一方であれだけ心を揺さぶられるのも心豊かに生きていくために必要なことなんかな。野口体操や整体などいろいろな分野で自然であることを良しとするが、その自然とは一体なんなのかはずっと探し続けていかなきゃいけない気がする。