「余白の音」に耳を澄ませて。

珈琲とからだ、ときどき言葉

瞑想の側面…

瞑想していると、もしかするとちょっと違ったりするのかもしれないなんて思うことがある。確かに、何かに意識を向け続けていると、不意に意識が外れることがある。下手すると戻ってこないことも。それも頻繁に。それを何かに留めておくこと、おけることは、注意散漫になりがちで集中力のないボクにとって重要である。と思うし、有益だと思う。


がしかし…が、しかしである。如何せん、この何かに意識をとどめておこうとしているとき、とても頑張っている感じがあるのだ。意識をそらしてしまわないように。この状態を何としても維持しようとしている感満載なのである。

それが正しいのなら何も言わないが、世の中には「居着き」という言葉がある。瞬時に動けるように身構えるのだけど、その身構えることが力みや強張りを生み、結果動けなくなってしまう、居着いてしまうとのことだが、なんだかそれと同じ匂いがするのだ。簡単に言えば、手段の目的化なのかもしれないなと思うのだけど、それと似ていないだろうか。集中することに集中しているみたいな感じだろうか。


夜、寝るまえに、座布団の上に胡坐をかいて、1時間のタイマーをかけて瞑想に入るのだけど、大抵おしゃべりが止まらない、そして呼吸が苦しくなり、足がしびれたり、腰が痛くなったりしてくる。もうだいぶ経っただろうと時計を見ると30分ほど。ここくらいからやっと静かになりだすのだけど、こういう症状が出てきたときに、これまでは逐一対応していたわけです。おしゃべりを止めようとし、呼吸が楽になるように、足が楽になるように、腰が楽になるように姿勢を整えて、微調整して、もぞもぞと、只管それを繰り返すのです。

そうすると、まるで綱渡りをしているかのように身体が固くなってしまうんです。そして、結局維持できずに力尽きてしまうのです。こういうことを繰り返すうちに、ふと「正しくあろう」という思いを手放すために、瞑想をするのかもしれないなと思ったんです。ちゃんとしよう、静かにしよう、長く座ってられるように整えよう…正しくあろうとすればするほど、形を整えることに一生懸命になって、「瞑想」という形を作るのに一生懸命になって。そうやって時間が過ぎるのをただ待つようになって。

この正しくありたいという思いは、やった結果(どうであったか)に対する執着からか、上手くいってほしいという願望からか、できていないという状態に耐えられないからか。たかだか瞑想で?できなくても何の問題もないのに?我ながら笑える…。が、真剣である。「やった結果がどうなったか」に異常なほど関心があり、そして無意識に「できている状態」を切望している感がある。それがどんなに小さいことであっても。それが何に対しても「正しくあろうとする → 全力を出す → 手を抜けない → 完璧主義者と呼ばれる」に出ているのだと思う。


足がしびれた、腰が痛い、おしゃべりが止まらない、呼吸がしにくい、イライラする、やってらんない…こういうものたちをどうにかしようとすることを諦めて、手放し、放棄する練習としての瞑想、という側面もあるんじゃないだろうか。そんなふうにも思うのです。集中する練習としての瞑想、手放す練習としての瞑想、どちらが正しいのかわからないけどどちらも効果がありそう。



感銘を受けた方々の言。皆さん同じようなことを言ってらっしゃって泣ける。

「図らわず、やるべきことをやる」森田正馬
 正しくあろうとせず、ただただ瞑想してなさいとさ。

「頑張るというのは、でっち上げの能力を鍛えているにすぎない」野口三千三
 正しくあろうとすることは、形を整えることに過ぎないと。

「明日のことは配慮すべきである。細心の注意を払って計画し、準備すべきである。だが、心配するには及ばない。」デール・カーネギー
 心配しすぎなんだなボクは。今やれることをやるだけなんだなと。結果は心配すんなってさ。

「死を受け入れたと叫んだが、生きる努力をやめようとは思わなかった。ある種の心配をやめた。生への執着を捨てた。生を放棄した。」ティモシー・ガルウェイ
 正しくあろうとすることはいいことなのかもしれない。だけど、それがどんな結果になるのかを心配するのはやめましょうと。